暇つぶしとして、色々なマンガを読んだりするなかで、
「日々、ありとあらゆる「情報」が飛び交う世の中に生きる上で、
大切な心構えは何だろう。」と思って考えていたのが、この週。
「メディアリテラシー」という一言で片付けられる事かもしれないけれど、
改めて考えてみると、大切なことが多かったように思えるので、
自戒の念を込める意味合いとしても、書き残しておこうと思う。
「情報」の海に飛び込む時には…
昨今のSNS媒体を使って情報を得ようとすると、
自分にカスタマイズされた情報が届けられる仕組みになっている。
これは、便利である一方で、言ってしまえば、
自分にとって望ましい情報のみを得ることが出来る状態でもある。
つまり、反論や、反対意見、あるいは、
異なる価値観を排除した世界に生きることが出来るということでもある。
自分が見たい世界だけを見ることが出来る世界。
とても都合がいいけれど、その世界に「多様性」は存在するのだろうか。
何が言いたいのかと言うと、最近は、特に、
自分にとって都合のいい情報だけを吸収してしまっているように思える。
ここに、「確証バイアス」との戦いが生まれている。
「自分にとって都合のいい情報だけ」 vs. 「様々な、かつ客観的な情報」
の構図。
結局の所、天使と悪魔の戦いなのだけれど、
「都合のいい情報」(悪魔)と「客観的な情報」(天使)
こと、情報に関しては、悪魔が優勢にも思える。
最終的には、自分にとって都合のいい、見たい世界だけを見るし、
その世界を見ている間は、「これは、正しいのだろうか」とか、
「偽りの情報は含まれていないのだろうか」などと、自問自答することは、
かなり少ない。
未知に飛び込むことが少なくなってしまうと、
「多様性」に対する寛容さが薄れていってしまうとも思う。
いかに、未知に対して好奇心を持ち、
知らないことに対して謙虚であることが出来るのか。
自分が犯した間違いに対して、寛容であれるのか。
「未知に飛び込む」ことが、無くなってしまうと、
自分の見たい世界の中で満足して、その枠から出なくなるのかもしれない。
情報を取捨選択する。
得た情報を、取捨選択するなかで、
もしかしたら、捨てた情報の中に正しい情報があるかもしれないし、
あるいは、選び取った情報の中に、間違いがあるかもしれない。
最近人気のマンガ、『スパイファミリー』のコミックス版、10巻では、
情報に対して、どう向き合うべきか、考えさせられる1シーンがある。
もちろん、時には決断する必要があるけれど、
その決断によって、過ちを犯すこともある。
あるいは、その決断が正しかったのか、
分からないことが延々と続くこともあるだろう。
そんな世の中においては、自らの頭で、
考え続けることが一番大事であると、改めて思う。
選び取った情報に対して、あるいは、捨ててしまった情報に対しても、
「常に謙虚である」
そんな姿勢を持ち続けることが大切ではないだろうか。
情報を伝えるときには…
情報を発信することも容易になったこの世界では、
自分が得た情報は、正しいのだろうか。あるいは、間違っていないだろうか。
などと、吟味する時間も持ち合わせていないように思える。
ツイッターという、オンライン座談会を常に開催している場所では、
常に噂話が絶えず、あるいは、どこかではボヤ騒ぎが起こり、
いつも賑やかではあるけれど、その賑やかさは、言ってしまえば、
「噂」の域をでない憶測でしかない。
得た情報は、正しいのか、間違っているのか、それすら分からない情報を、
SNSという伝言ゲームで伝えあっていく。
その過程で、意図は歪められることもある。
訳の分からない文脈が登場することすらある。
そんなインターネットを使った壮大な伝言ゲームの中では、
自らが発信する情報の正確性だけでなく、
適切に伝える力も求められるのだが、
結局は、「噂話」の域を出ないので、耳障りの良い、かつ面白い
そんなネタだけが消化されていく。
そんな影響にかき消されて、役に立つであろう情報が目立たないこともある。
だからこそ、情報の海に晒されている人類は、
偽りに惑わされること無く、「正しい」情報を得る必要があるのだが、
「正しさ」は、結局、自分の主観に落ち着くことが多いので、
「自分の見たい情報」だけを見てしまう毎日。
そんな、「自分が見たい情報」の中に埋もれて、
自分の主観を、相手に押し付けるのは、どうなのだろうか。
何かを、伝える、あるいは、発信するならば、
自分を改善する努力を怠ってはいけないと思うのだが、
その「改善」の気配が見えない人を見ていると、そして、
そんな「改善」などしなくても、生きていけるのだと知ると、
やる気が削がれるのだが、そうはなりたくないという
反骨精神は磨かれていく。
まとめ:情報の扱い方とは。
ここまで、色々考えて、結局至った結論は、
「正しい(と思われる)情報を得ることを心掛けながら、
発信する際には、得た情報は、全て間違っていると思いながら
アウトプットする意識を持っておかないといけない」のだろう
この感覚は、日本の教育を受けてきたなら、違和感しかないかもしれないが、
史実を覚えることに、意味はないし、
計算力は必要だけれども、
頭の中に、エンサイクロペディアを作っても意味はない。
大事なことは、情報を活用する力の方。
当然、頭の中にエンサイクロペディアがあった方が便利だけれども、
無かったとしても、検索すれば、なんとかなる。
だからこそ、先に述べたような結論に至る。
「常識」とは、成人までの間に作られた「偏見」のことだ。
とは、誰が言った言葉だったか。
極力「偏見」を持つこと無く、
フラットに、情報に接していたいものだ。
「良い情報」なのか、「悪い情報」なのか。
「正しい情報」なのか、「偽りの情報」なのか。
世の中は、そんな情報でありふれている。
毎日飽きること無く、噴水のように、
ニュースとして流れてくる。
自らが、バランスを取った情報収集が出来れば一番都合が良いのだけれど、
それが一番、難しい。常に改善の努力が必要なのだろう。
この週はこんな所。
感情が浮き沈みすることなく、凪のように落ち着いているけど、
もちろん、嫌なことはある。
来週は、どこまで受け流せるのか。
まずは、散歩してリラックスでもしようか。
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