2022 2/21~2/27 理解する力も大切だという話

タイトルが全てだとは思うけれど、理解する力の大切さを実感した一週間だったので、書き留めようと思う。

スポンサーリンク

話す力に焦点が当たっている昨今だけれども…

巷には、『人は話し方が9割』やら、同じように『人は聞き方が9割』といったタイトルの本が売れているようなのですが、どちらに焦点を当てたとしても、結局は「理解力」が大切になるのだと思う。

どういうことかというと、まず、異なる言語を話す人とコミュニケーションを取る際には、多くの場合、考え方や認識に大きなズレがあることに気が付くと思う。これを、「カルチャーショック」として受け入れたりすることで、認識や理解の幅を広げるきっかけになる。だからこそ、留学したほうが良いといった考えの方も多いと思う。

また、異文化交流をするきっかけすら無いから、「カルチャーショック」など知らん。といった方であっても、世代間の認識のズレである、「ジェネレーションギャップ」くらいは経験すると思う。どちらかというと、この「ジェネレーションギャップ」の方が馴染み深いだろうか。

さて、「カルチャーショック」だろうと、「ジェネレーションギャップ」だろうと、そこにあるのは、何らかの認識や知識、あるいは、その人にとっての「常識」が、他者とズレていることを思い知らされる経験であると思う。

この「他者とのズレ」というものは、日々の生活の中に多く潜んでいるように思う。

フェルディナン・ド・ソシュールという名の学者は、「各民族語は、相互に異なる固有の世界像を持つ」という言語相対論を提唱した。

簡単に言い換えると、「国が違って、使っている言語が異なれば、見ている世界の姿が異なる」というものである。

ここにおいては、異論の余地は無いのであるが、これは、かなりマクロの話。

今週感じたことは、この言語相対論をかなりミクロで見ていくと、最小単位の文化が異なるだけでも、実は見ている世界像は異なっているのではないか。という話。ここまでが導入。

同じ言語でも認識にズレがあることがある。

そう。同じ言語を使っていても、「なんとなく相手に伝わっている気がしない」とか、「理解されていないような気がする」経験は誰にでもあると思う。

自分としては、「A」という意味で使っているつもりの言葉が、実は、相手には別の意味である「B」として伝わっていると、ここに認識のズレが生じることになる。

「せめて、「A’」くらいの理解をしてくれてもよくない?」なんて愚痴を言う日々。ほんとにうんざりしてしまうやつ。

まずは、なぜこのような「認識のズレ」が生じるのかを考えてみようと思う。

ある単語を理解する背景には、その人が育ってきた環境、与えられた教育レベル、また、両親や家族といった最小単位の文化的な背景が存在すると思う。その中で育つことで、いわゆる、その人の「常識」が形作られてゆく。

そのように作られた「常識」を元に、他者とコミュニケーションを取るのだが、ここで、話が合う人と出会ったとする。

この「話が合う」という現象は、相手との「常識」のすり合わせができている状態だと思う。

一方で、「話が合わない」のは、相手の持っている「常識」と自分の持っている「常識」が異なっている状態のことなのだろうと思う。

この、よくある「話が合わない」という状態、実は、相手と自分の使っている言葉の意味を別のものとして使っているのではないだろうか。

ただ、実際に自分が言葉を使っている時に、ここまでの考えを巡らせることはかなり難しいし、ちょっとでもイラっとした状態だと、相手がその言葉をどんな意味で使っているのかなんて、考える余地はないから困ったものです。

多分、ここまでのことを、その場で理解する力があれば、多少は、コミュニケーションがスムーズに運ぶのだと思う。けど、これが難しい。

「他人と仲良くなるには…」みたいなことについて考える。

よく、「初対面の人とは、共通点を探しましょう。」とか、「共通の趣味がないか話してみましょう。」といった文言を聞いたりする。

フローチャート的に見ると、「共通点を探す」→「話題を広げる」みたいな感じだろう。

これを無理矢理言い換えるなら、「共通点を探す」は、「同じ常識を持っているか探す」で、「話題を広げる」は、「常識に対する解釈がズレていないかを確認する」といった感じになるのだろう。多分。

なら、「けんかをしないように、お互いの価値観を尊重しましょう」は、「共通点以外の「常識」は何かを理解し、その「常識」を解釈し、ズレを埋め合わせるよう努力する」といったところかな。

なんとなく、鋼の錬金術師の「理解・分解・再構築」を思い出してしまった。気になる方は読んでみてください。

まとめ

さて、まとめです。

コミュニケーションは、日常生活において必須の行動で、スキルとしても扱われることが多く、自発的に相手とコミュニケーションを取れる人が素晴らしいみたいな風潮はあるけれども、「誰とでも話せます」みたいな人も、「自分から話すのは苦手です」みたいな人もきっと大事なことは、相手の「常識」に対して理解を示すことのように思える。

「一旦、自分から一歩引いて相手の「常識」を尊重する。」このことを意識することが出来れば、きっと今より少しは、相手に「伝わらない」ことも、相手を「誤解する」ことも少なくなるのではないだろうか。

以外と子供ができて、大人ができないやつ。

政治の場になると、もっとしなくなる行動。

国際社会になると、そんなこと無理なやつ。

もう少し世の中が穏やかであることを祈りたい。今はそれしかできないから。

この一週間はこんな感じで、「認識のズレ」についてひたすら考えていたような気がする。

明日からは、「認識のズレ」を意識して生活することが出来るだろうか。まぁ、多少難しくても、少しずつ生活の中に取り入れることが出来ればいいかもしれない。

ひとまず、一日一日を大切に過ごそう。今週はこんな感じ。

スポンサーリンク
タイトルとURLをコピーしました