無駄に有りもしない未来とか、もう変えることの出来ない過去だとかを考えていたら、3/16(水)の夜中に大きな地震が発生するというね。時期的にも11年前を思い出さざるを得ないという、なんとも言えない境遇に陥った訳だけれど、そんな災害に遭うと、やはり、今生きているこの瞬間は大切な時なのだろうという結論に至るわけで。今週はそんな、未来・過去と現在に焦点を当ててみようと思う。
未来に対する想像
まずは、未来に対して何を思うのか。ということを考えようかと思うのだけれども、その時の気分がポジティブならば、色々と行動してみようなんて思うのが普通で、ポジティブな感情の中に身を置くと、「行動してみて、ちょっと壁にぶつかって、また別の時にその壁を乗り越えようとする」そんなサイクルができる気がする。そうなると、1日もあっという間に終わってしまう。かなり幸せで、文字通りポジティブな思考なのだろう。
一方で、ネガティブ思考に思いっきり振ってみるとどうなるのかというと、未来に希望なんて持てず、「現状がそのまま、人生の終わりの時まで続いてしまうのではないか。」こんな思考になる。何なら、今よりももっと悪くなるんじゃないか。なんて考える始末。今、何をどう頑張っても現状を打破することなんてできず、結局の所、徒労に終わる。そうなってしまうなら、何もしないほうがマシだ。まで考えると、なかなかのネガティブ思考。
ポジティブ思考だと、精神的には健全な気がするし、余計なことを考える必要が無いから、「精神的に疲れた。」なんてことも無いのだろう。ある意味では羨ましい状態。悪く言うと、決してそんなことはないのだろうけど、何も考えなしに行動している、猪突猛進で、計画性のない状態。
多分、自分がポジティブなのかどうなのかを判断する基準は、そういった所にあると思う。ポジティブならば、無計画に、好奇心の赴くまま、とりあえず、行動してみる。それが出来ている気がする。一旦突っ込んで、そこから計画を立てようくらいが多分、丁度良いのだろうと思う。
ネガティブ思考に陥ると、結構ヤバい。未来に希望が持てない。なんて思ってしまう時点で、多分、もうどうしようもないのだろう。よく、「死」という概念が思考の一部になってしまうと、それを克服しようとするのには、かなりの時間が掛かるというのは、よく知られた話。最近だと、アメリカのアーティスト、ほぼ知らない人はいないのではないだろうかと思うのだけれども、レディー・ガガも、結構苦労したことをメディアに話していたことを、ふと耳にしたことがあったと思う。(記憶違いじゃないことを願いたい)
未来に対するネガティブ思考のゴールは、結論の形は変わるのだろうけれど、概念的には、「ニヒリズム」に落ち着くと思う。最終的に、「この世の中に本質的な価値なんて無い。」という結論に至って、その思考が、世界に対して牙を向くと、訳の分からない行動をしたり、自分に対して牙を向くと…。有名人だと、ニュースになるやつね。明言は避けるけれども。
かなり変な表現になるけれど、ポジティブなニヒリズムになると、きっと、「この世はどうせ無価値なのだから、人様に迷惑をかけない程度に、自分勝手に遊んで、自己満足しよう。」くらいに落ち着くのだろう。
これもまた変な表現。ネガティブなニヒリズムになると、そもそも、ニヒリズムはネガティブな印象を受けるけれど、「この世は無価値。自分も無価値。もうどうでもいい。人に迷惑をかけないで消えてなくなってしまったほうが楽なんじゃないだろうか。」みたいな感じになる。
未来を考える時には、この、ポジティブなニヒリズムとネガティブなニヒリズムの間を綺麗に渡り歩いて行ければ良いなぁと思う。
過去に対する回想
過去に対する回想に関しても、ポジティブな捉え方と、ネガティブな捉え方があると思う。
ポジティブな捉え方が出来ている時は、たとえネガティブな過去の出来事でも、どこかの側面で学びを得ることが出来るのだと思う。「あの時は、嫌な経験をしたけれども、あの経験があるから今がある。」みたいな常套句に収まる感じ。「過去の出来事から、学びを得ることが出来た。」そんなポジティブな状態が理想。けれども、そう。人は常にポジティブではいられないのです。
これがネガティブになると、過去の嫌な出来事の奔流に飲み込まれて、現在に戻って来れなくなるような錯覚に陥る。「あの時はあんな嫌な出来事があった。今もなんか、そんな嫌な出来事に似ている。きっと、あの時と同じような嫌な体験をするんだろうなぁ。」と思い悩んで、精神的に参ってしまうやつ。
過去と現在は、厳密には異なる出来事のはずなのに、ネガティブな状態にいると、現在の嫌な出来事を、過去のそれと同じものとして捉えてしまう。また、現在に良い出来事を経験していても、過去の悪い結果と結びつけてしまう。ネガティブな状態から抜け出すには、きっと、「なんで過去の出来事を思い出したんだろう?」と疑問に思うことが大切なのかもしれない。
さて、未来に対する想像は、「ニヒリズム」に落ち着いた訳だけれど、過去に対する回想は、どこに行き着くのだろうか。というと、
過去に対する回想は、きっと、「ダダイスム」に落ち着くのだろうと思う。
「ダダイスム」:既成の秩序や常識に対する否定、攻撃、破壊といった思想が特徴。(ウィキペディアより抜粋)
さて、変な表現シリーズ。「ポジティブなダダイスム」はというと、過去の既成事実に対して、「あの時は嫌に思っていたけれど、よく考えてみると、逆に良かったじゃん。」みたいな感じ。学びとして再解釈することで、過去の既成事実を否定し、破壊し、新たな概念を得ている感じ。
一方、「ネガティブなダダイスム」だと、「あの時、嫌な出来事を経験してしまった自分は、もう既に不完全な存在。理想の自分、完全な存在になるために、現状を全て破壊する。」となるのだろうね。極論。人類補完計画を遂行しようとしている碇ゲンドウだね。まぁ、これは周りの環境を壊そうとしているけれど、過去の回想においても、未来のネガティブなパターンで、かつ、自分に牙が向いた場合と同じような結論は、最悪の場合、もうそこに在るね。
もういっそのこと、死神と仲良くなれたら良いのに。なんて面白い発想は、ネガティブのメイルシュトロームに飲み込まれようとしている最中では、絶対に思いつかない。メイルシュトロームの中心で死神は鎌を振り回しているからね。ちょっとでも近づこうものなら、月牙天衝がとんで来るからね。もう、ここらへんは、何言ってるか伝わらないと思うけどw
結局、人生は今の積み重ね。
とりあえず、過去やら未来やらを考えながら、ボーっと過ごしていたら、地震が襲ってきて、ふと、現実を直視しないといけない時間があった訳だけれど、結局、今生きていることに対して感謝しようと思う。これは、『ハーバードの人生を変える授業』という書籍の中にも書いてあったこと。
あんな訳わかんない地震を何度も経験しながら、とりあえず、生きていられるのは、なかなかの幸運だと思う。ほんの小さな「もし」の積み重ねが悪い方に行ったら、この世にいない。なんてことは、以外と日常のそこら中に転がっているのだと思う。常日頃から、感謝を忘れないようにしたい。
一方で、日本に対してかなりネガティブな事実を突きつけているような動画もある。
この、動画の一番最後の部分。ほんの一部だけれど、もう現実に起きてるんだよね。
「日本の若者は、大学に行くために奨学金という借金を背負い、卒業して、結婚して、子供を持とうと思った時には、もうだいぶ歳をとっている。」
事実過ぎて、痛い。そうなってしまった若者は、海外に出ることも叶わず、生地獄のような環境で一生を終える。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』みたいなことになってる。地獄から抜け出そうとするものは、有象無象に足を引っ張られ、頼みの綱も切れ、落ちぶれてしまう。特に日本という国は、足の引っ張り合いが美徳と形容されるくらいだからね。
もうね、どうしろっていうの?みたいな感じ。
結局の所、今が一番大切なことには変わらない。とりあえず、今現在、地獄にいるとして、心に留めておきたい言葉くらいは書いておこうと思う。
“God, grant me the serenity to accept the things I cannot change, the courage to change the things I can, and the wisdom to know the difference.”
細かい部分は、ちょっと違うけれど、ニーバーの祈りと呼ばれるものの一部。
訳すと、
神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。
とまぁ、変えることのできないもの、→社会的な制度etc.
変えるべきもの→自分自身の人生に対する価値観や、現状。
大雑把にこんな感じになる。
そう。心に留めておこう。想像や回想では、現状を変えることはできない。実際に行動を伴わないことには始まらない。
最近は、ネガティブなメイルシュトロームに入りかけていたような気もするけれど、色々書いていく中で、思考も整理されてきて、ネガティブが外に出ている気がする。
明日からは、先週よりも、ちょっとはポジティブな思考が持てるような気がする。
とりあえず、災害には気をつけながら、現状を変える努力を忘れず、感謝を忘れずにいようと思う。
『今を生きる』そんな邦題の映画もあったくらいだし。明日からも「生きる」ただそれだけ。
とりあえず、先週考えたことはこんな感じ。今週は、何が待っているのだろうか。