2022 3/7~3/13 天災によって壊された常識と武力によって壊されている日常

3.11の東日本大震災から、11年という月日が経ち、震災の記憶や教訓を意識して後世に伝えなければ、年月とともに風化してしまうことも現実味を帯びてきたタイミングで、世界に目を向けると、争いが激しくなっている今日このごろ。

普段は気にしないけれども、日常の生活はルーティーンで溢れていて、自分では普通と思っているルーティーンも、他人からしたら異常なものであり、そういった違いに気付いて一喜一憂することもまた楽しい。みたいな、ごく平凡な日常は、実は奇跡みたいな出来事であることを意識して生活しておかないと、いざ、その習慣が壊された時に、絶望の底に叩き落される。ということを、毎年、3.11が訪れるたびに思い知らされる。

今週は、そんなお話。

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天災によって壊される日常

そう。11年前の3月11日。勉強をしようとか、自動車学校に行こうとか、明日も暇だから、適当に映画でも見ようか。なんて、ありふれたことを考えているときに、文字通り、経験したことがない地震を体験した。幸運なことに、海沿いからは離れているところにいたから、「この後に津波が来る。だから、高台に避難しないと。」といった、パニックになったら考えることが出来ないようなことを考える必要がなかった。また、家の中にいるときに地震が襲ってきて、自分の周りには、タンスやらが多くて、全て倒れてきたけれど、偶然にも自分がいる所だけが安地で、下敷きにならなかったことも僥倖だった。

次の日になった辺りで、津波に襲われた地域は壊滅し、犠牲者も多い。といった類の報道を新聞で目にするが、電気がないから、紙媒体以外の情報は無し。

いかに、現代のテクノロジーによって、生活が成り立っていたのか。ということを実感し、そこからは、インフラが全て整うまで、被災者生活。3ヶ月程経って、電気、ガス、水道の全てが元に戻ったと記憶している。

別に、当時の状況を伝えたいわけではないので、この辺りで過去回想は終わり。

何が言いたいのかというと、「想定外の出来事によって、日常が壊されることがある」ということ。以前までの習慣をこなすことなんて不可能で、強制的に、今までとは異なる習慣で生活することを強要される。そんなことが起こりうる世の中に生きているんだなぁ。ということを、3.11が来るたびに想起させられる。

とりあえず、4月が近づいてくると、「新生活応援!」なんていう広告も目にすることが多くなって、新しい生活が待っている人も、そうでない人も、何か新しいことを始めてみよう。みたいな雰囲気になる。

4月。新生活ということで、新しい習慣の中に、これから身を投げ入れます。という人も、そうでない人も、5月、ゴールデンウィーク辺りで、疲れてくるというのも、毎年の恒例行事みたいで、なんとも言えない。

年齢を重ねることで、強制的に習慣が書き換えられる出来事。それが、「新生活応援!」ある意味では、「あなたの生活をアップデートしなければなりません。4月になりましたら、強制的にアップデートさせていただきます。また、以前のバージョンのサポートを終了させていただきます。ご了承ください。」みたいな感じ。

変化を受け入れたくない。そんな気持ちも分かるけれど、全てを拒絶することは、成長するきっかけも失いかねない。その塩梅が難しい。成長:安定=○:△この記号に当てはまる数字を教えて欲しいくらい。

年齢は、もう、どうしようもないから、今は置いておくとして、予想外の「天災」によって書き換えられた日常を過ごさなければならなかった日々や、今もまだ書き換えられている場合、そのストレスや、ネガティブな感情のはけ口が、どこにも無いことが本当に辛い。

自然災害の恐ろしいところは、その災害の全ての結果を受け入れなければいけないこと。それがどれだけ辛くても。「自然は、人の手には負えない」と割り切るしかない。

そう。「自然は、手に負えない」ある意味では、このように割り切れるのが天災。

武力によって壊される日常

細かいことは省くけれど、そう。ウクライナの話。

完全に武力によって、ウクライナの人々は習慣を書き換えさせられてしまった。

天災と違い、明確な原因がある。

一番恐ろしいのは、今後、この原因に対して、「怒り」や「恨み」に支配されて、争いが終わらないこと。漫画とかなら、良い結末を描けるのだろうけれど、これは、ノンフィクション。そんな綺麗事にはならなそう。というのが現実的なのかもしれない。

ネガティブな感情やら、喪失感やらが心を支配するのも時間の問題。これは、天災によって壊されても同じこと。

「心に何らかの傷は残る。」そして、それが癒えるまでの時間は、思っている以上に長い。

それこそ、10年経ってようやく乗り越えようと思えるくらいの傷になりかねない。もちろん、個人差はあると思うけれど。

歴史は私達に何を語りかける?

ウクライナの問題について、連日ニュースで取り上げられているのを見ていると、ある時、不意に、頭に浮かんだことが一つだけある。

そう、今現実に起こっているのは、「ハンナ・アーレント」が記した「凡庸な悪」だ。ということ。浅はかかもしれないし、考えすぎかもしれないけれど。

「ハンナ・アーレント」について、簡単に説明すると、第二次世界大戦後、「アイヒマン」という人物の裁判から、「ナチスドイツ」により引き起こされた悲劇的な事柄を考察した哲学者。といったところ。

心理学を多少、知っている人は、「アイヒマン実験」という名前で聞き覚えがあるかもしれない。

「アイヒマン実験」を簡単にまとめると、人は、権威のある上司や、権威のある専門家の意見には、必ず従ってしまう。というもの。そこに、自分なりの考察や理性を入れようとはしない。ということを明確にした実験。

ハンナ・アーレントによれば、(かなり大雑把に要約すると、)「権威によって裏付けられた上司の命令を、部下は忠実に守ろうとする。その命令がどんなに、非人道的であっても。」このことを「凡庸な悪」と名付けた。

「表面的な体裁を保つためだけのものだが、しかし、社会に蔓延して世界を荒廃させうる。という考え方」(コトバンクより一部引用)。であるとも。

今、まさに国際問題として、このことが問われているような気がする。

というより、世の中で起こっている大体の問題は、「凡庸な悪」なのだろう。

結局の所、社会のシステム上、支配構造を伴っているのは仕方のないことなのだが、支配構造によるメリットよりも、デメリットが大きくなると、「今回みたいな問題になる。」

それが、国際問題みたくマクロ的な問題となるのか、会社の中のいざこざみたくミクロ的な問題になるのか。結局の所それだけの違い。

さて、ハンナ・アーレントは、このような考察を、歴史的な出来事が起こった後で書籍としてまとめた訳だが、現代に生きる私達は、そんな歴史があることを知っているし、彼女の書籍を読むこともできる。

ただ、私達が直面している問題自体は、当時とは状況が違うにも関わらず、問題が起こった根底にある構造は、第二次世界大戦の頃から変化していないようにも思える。

彼女の書籍が出版される前と同じような歴史的な過ちを犯すのか、それとも、私達人類は、歴史から学び、より賢い選択を取れるのか、そんな分岐点に立ち会っているような感じがした。

「歴史を学ぶ意味はない」という声はよく耳にするのだが、日本における教育上、知識詰め込み型教育をしている限りはそうなのかもしれない。

ただ、「歴史を学ぶ本当の意味」は、現在のような状況で生きるのだろう。「知識の詰め込み」ではなく、それこそ、「過去に起きた出来事」や、「過去に起きた出来事」について考察した学者の考えから、どのようにすれば、その「過去に起きた出来事」は防げたのか、また、どのようにすれば、「今後、過去の出来事に似た出来事を回避できるのか。」このことを考えることが、本当の意味での「歴史から学ぶ」なのかもしれない。

さて、ここまで書いて、自分はどのように考えるかというと、

「支配欲は身を滅ぼす」

ということ。これに尽きると思う。

「思いやりの心」は本当に大切。

まとめ

すごく端的にまとめると、

「自分の身の回りだけでもいいから、優しさと思いやりに溢れた状況を作っていたい。」

本当にこれだけ。これが一番幸せだと思う。

そして、そんなことを思うときは、大体、アメリカ映画の「ペイ・フォワード」を思い出す。

「少しの優しさと思いやりの心」が、少しずつでもいいから、世界に広がっていってもらいたいとおもいながら、先週の回想を終わろうと思う。

今週は、今週も?

せめて自分の身の回りだけでも、「優しさと思いやりの心に溢れた世界」であることを願いつつ、そうなるように、自分に出来ることとして、「優しさと思いやり」は忘れないようにしようと思う。

気付いたらそんな平和が世界に広がっていることを祈りながら、3.11に黙祷。そして、武力による被害者に黙祷。

明日の状況は分からないけれど、「生きているその瞬間」に集中しよう。

今週も日々を大切に過ごしていきたい。そんな心の中心に、「感謝」を忘れずに持っておきたい。

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