先週からのテーマの続き。先週は、ストレスにどう対処しているのか。ということを書いたけれど、今週は、先週の終わりにちょっと考えた「自分に対する優しさ」が大切だということについて考えたことを書いてみようと思う。
自分に対する優しさが無いと…
自分に対する優しさの度合いが低いとどうなるのか。ということなのだけれど、もちろん、人によって何が欲しくなるのかは異なるけれど、自分の場合は、「他者に依存したくなる」ことが多いような気がする。「他者に依存」というと聞こえが悪いけれど、簡単に言うと、「他者に認められたい」という欲求が強くなる。という感じだ。
そう。自分の頑張りを認めてくれるような人が周りにいる人は、それだけで幸せだと思う。そのことを当たり前に思ってはいけない。自分を認めてくれる人がいるならば、そういった人に対しては、感謝を忘れるべきではない。
けど、自分の頑張りを認めてくれるような人なんていない。とか、仲の良い人はいるけれど、以外と自分が頑張ったことは認められてないような感じがする場合、誰かに認めてもらいたくなる気持ちは、多少なりともあるはずだ。「自分は頑張った。だから自分のことを認めて!」と心が叫んでいる瞬間だ。
そんな時に、「他者からの承認」を期待する行為は、やめたほうが良いのではないだろうか。というのが、現在、自分が考えていること。
振り返ってみると、過去に、『理解する力も大切だという話』ということで、記事を書いていたのだが、これがなんと、2月の終わり。今は、4月の中旬。桜の季節だ。とか思いながら、記録することの大切さを改めて感じている。
なぜ、「理解する力」に話が移るのかと言うと、そもそも、自分の主観で生きている価値観と、他者が他者の主観で生きている価値観には、ズレが必ず存在しているということを踏まえないといけないからだ。
以前は、理解する時点で、ズレが生まれるといった類のことを書いた訳だけれど、これを、今回のテーマに落とし込むと、自分が「良いこと」と思って頑張ったこと。という自分の主観に依存した価値観は、他者から見た時に、必ずしも、「良いこと」にはならないし、そもそも、「頑張り」も他者視点では、頑張りのうちに入らないかもしれない。ということが言えるのだ。
まとめると、自分の価値観のものさしで測って、「良いこと」とか、「良いもの」だと思っても、他者の価値観のものさしで測ってみると、「そうでもない」というものがある。というか、この価値観が合うのなら、その人とは、本当の意味で、仲の良い人なのだと思う。
そう考えると、他者が自分のことを正しく評価してくれるのを待つ姿勢というのは、なかなかに無駄なことなのでは?と思えてくる。
自分と他者は、価値観が異なる。この前提が正しい時は、他者が自分のことを正しく評価してくれることは、全くと言っていいほどない。むしろ皆無なのではないだろうか。
承認欲求の罠。抜け出すには?
「他者に依存」というより、他者に評価されたいと思う時は、イメージするなら、「満足感を入れるコップの中身が空」の状態なのだろう。空の状態だ。だから他人に満たしてもらいたい。といったことを考えているのだと思う。
けど、SNS社会になり、やれ「いいね」の数が。とか、「フォロワー」の数が…。とか。確かに大切なのかもしれないけれど、よくよく考えてみると、その他大勢からの評価で、自分の「満足感のコップ」が満たされたことはあるのだろうか?きっと、満たされることはないのでは?と思ってしまう。
なぜなら、この構造自体は、資本主義と同じだから。資本がいくらあっても満たされない。と思う資本家がいるように、評価がいくらあっても満たされない。と思う個人がいてもおかしくない。安直な表現になるけれど、資本主義ならぬ、欲求主義がここに存在している。
きっと、資本主義と欲求主義の共通項は、「満たされたい」と思う心なのだろうけれど、「満たされたい」と思っている時点で、そのメイルシュトロームからは抜け出せない。
鍵になるのが、「自分に対する優しさ」という訳だ。ようやく本題に入る感じがする。
ここで言う「自分に対する優しさ」とはどういったものなのかというと、「自分で、自分が行ったことに対して、正当に評価する」ということだ。決して、「甘やかす」という意味ではない。
そう。基本的には、努力を積み重ねる。その結果に対して、どのような評価を自分で下すのかが大切になる。「頑張ったのだから、誰か認めて!」という思考ではなく、「過去のある時点と比べて頑張った。そして、良くも悪くも結果が出た。そのことに対して、正しく、自分は頑張ったのだ。」と認めるステップを持つ必要がある。そのステップを踏んだら、「次にどう頑張るのかを考える」のサイクルを確立する必要がある。
よく巷では、「PDCAサイクルが大切だ〜」と言うけれど、Dの「Do(実行)」とAの「Action(行動)」の後で、必ず、「自分は頑張ったのだ」と正しく自分で自分を評価する時間も大切になると思う。だから、この「Evaluation(評価)」を入れて、「P→D→E→C→A→E」サイクルを確立することが、欲求主義からの脱却には必要になる思考法にも思える。
〇〇主義からの脱却。それは…
さて、「自分に対する優しさを持つ」ということで書いてきたわけだけれども、資本主義だろうと、欲求主義だろうと、いずれにしろ、大切な思考法は1つに収束するような気がする。
それは、「足るを知る」ということだ。
最近では、SDGsが騒がれているけれど、それは結局、「もうこの社会は、いろいろと足りているのではないか?」という問いの結果現れた考えのような感じがする。
人の生活において、社会が”正しく”機能していれば、人はもっと余裕をもった人生を過ごせるはずだ。という考えを、SDGsの各ゴールを達成することで実現させようとしているようにも思える。
その点、フィンランドはモデルになる社会のあり方を実現しているような国なのだと思う。実際に住んだことは無いからわからないけれど。ただ、それなりに羨ましいと感じているということは、自分にとっては、理想に近い形なのだろう。
だいぶ話が逸れた気もするけど、「足るを知る」という話。
自分の生活において、なにが一番大切で、何が不必要なのか。
大切なものを維持するためには何が、どれくらい必要で、どれくらいからは必要ないのか。
この、確固たる自分に対する価値観というものがあるだけで、「足るを知る」ことが出来ると思う。
その点、「足りている」なら、余剰分は分配すれば良い。と思い、実際に行動している前澤友作さんは素晴らしいとも思う。
おわりに
さて、今週は、「自分に対する優しさ」を持ったうえで、「足るを知る」ことが大切だ。という結論に至った訳だけれど、やはり、まずは、「足りない」なら、自分で埋めるしかないよね?という所だろう。「認められたい」でも何でも。
ただ、頑張っていると、どこで休憩すれば良いのか分からなくなるけれど、多分、「辛い」と思ったタイミングは、休むべきタイミングなのだろう。きっと、立ち止まると見えてくるものもある。
今週は、適度な休憩と、適度に自分を認めることを大切にしながら生活することを心掛けるようにしよう。