2022 5/2~5/8 GW→五月鬱の流れを断ち切りたい

GWも終わり、今年の大型連休も無くなったのか。とか思うと、
次の話題は五月鬱。鬱に関しては、五月だろうとなんだろうと
関係ないけど、五月は特に多いよね。理由はいろいろだけれども。
という、この五月に多くなってしまう鬱を、どうにか防ぎたいなぁ。
と思って書こうかな。といったところ。

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GWからの五月鬱の原因を探る。

まず、考えておきたいことは、
「なぜ、GWが明けて、鬱が増えるのか」ということ。
単純に、休みがもう無い。だけなら話は早いのかもしれないけれど、
もうちょっと、理由は複雑だろうなぁ。と、
この時期になると考えてしまう。

とりあえず、細かい違いはあると思うけれど、大きな枠で捉えると、
「(旅行が出来るほどの大きな)休みが終わった。」
→「また、いつもの(ストレスが多い)日常がやってくる…」
→「今年のGWは、もうちょっと〇〇しておけば良かったなぁ…」
→「(日々のストレスが積もり積もって)もう嫌だ…」(←五月鬱)

とまぁ、こんなところが、メジャーな心の変化なのだろうか。
この変化が、何処かで良い方向に変われば、
最終的な五月鬱的な病は変えられそうな感じがする。
さて、何処で、どんな変化が必要なのだろうか?
もう少し、細かい感情を考えてみよう。

「(GWは、いつもと違う場所で、違うことをして楽しめるので、)
実際に、旅行して、非日常を楽しむことが出来た」
→「非日常から、日常に帰ってきてしまった…」
→「もう少し、非日常を楽しんでいたかった…」
→「(日常を過ごしているうちに、)もう疲れた…」

と、言い換えるならこのような感じになるのだろう。
ポイントは、「非日常」にあるような感じがする。
「非日常」から、「日常」への切り替わりのタイミングで、
今いる「日常」が凡庸で、つまらないもの。
という認識になる辺りが五月鬱的な病になる引き金になっているような。
「非日常」と「日常」をもっと別の言葉で置き換えてみよう。

「非日常にやってきた。(今この瞬間は、いつもと違う場所で、
違うことをしていて、注意が必要だけれど、楽しいと思える挑戦もある。)」
→「日常に帰ってくる(慣れ親しんだ環境で、いつものことを慣れた手付きで
淡々とこなせばいいだけの今。気をつけることも、挑戦も無い。)」
→「あの非日常は楽しかった。(その瞬間に没頭できていて心地よかった。)」
→「変化もない今。(同じことの繰り返しで、先が見えなくなってきた。)」

ここらへんまで考えると、なんとなく改善の余地がありそうな感じがする。
キーワードは、「没頭」だったのかもしれない。
もっと言い換えると、「フロー状態」を感じる事のできる期間=GW
「フロー状態」が無くなったことによる、喪失感=五月鬱的病
この結論が一理あるという仮定で話を進めてみよう。

五月鬱になるかならないか。
それは、「フロー状態」を味わった後で、
「フロー状態」を失ったことによる、喪失感を
感じるか感じないかの差なのかもしれない。

ただ、本当に「心がしんどい」と思ったら、
信頼できる精神科のある最寄りの病院なり、心療内科を受診することが
一番だとは思います。また、
「心がしんどい」となる前に、そうなったら、何処に行けば良いのかを
確認しておくことも大切かもしれません。

結局「フロー」に落ち着くのか…?

振り返ってみると、
2月末とか、3月半ば辺りにも同じことを書いてることに気づく。
「今という瞬間に没頭することが出来るかどうか」
このことが大切なのは分かるけれども、
それが出来ないから、五月鬱的な病は襲ってくるわけで…
なんて思うけれど、きっと、一年のうち、今の時期に、
改めて考えておきたいことが、この「今に没頭」するかしないか
ということなのかもしれない。

それならば、「今に没頭」するために必要な要素を考えてみようじゃないか。
というのが、次の問になるのかな。
問題、
「今に没頭」するために必要な要素を答えよ。

解答、
「挑戦、集中、好奇心」この3つが必須でしょう。

ただ、「挑戦と集中」は、GW明けになると、なくなりがちになることは、
なんとなく想像が付いている。ならば、どうしようか?
そうだ。「好奇心」を持ち続けよう。
と単純に思って、「好奇心」を持てるのならば、苦労はしない。

「好奇心」が失われた先は、「無知」か?

こんなことを考えると、「無知の知」とはよく言ったもので、
「無知であることを知ることは、知ることのきっかけであり、
そこが、好奇心の入り口なのだろう。」とか考えてみると、
現代は、いつでも検索出来るし、答えはいつでもそこら中に転がってるから、
もはや、「答え」が道端の石みたいな感覚になってしまって、
あえて拾って確認してみよう。なんていう作業を怠っているような感じもする。

当たり前の問題に関しては、あえて拾うことをするまでもなく放って置いて、
「幸せになるには?」みたいな、答えの無い問題に対する答えを、
「石」しか転がってないようなところで「ダイヤモンド」を探すような行為を、
平然と行っていながら、あれも違うこれも違うとか言いながら、代わり映えの無い
日常を送るという愚行を続ける人間の………

ここまで書いて思った。もう、自分が五月鬱的な病に掛かっているのでは?
ちょっと毒を吐き過ぎた気がするので、小休止。

そう、「無知」の話。
当たり前にあることに対する「好奇心」が失われているのでは?という話。
こう思ったことのきっかけは、
「無知は時に他者の感情を害することもありうる」
ということを思い知る出来事があったからだ。

「無知」が許されるのは、エデンの園にいる間だけ。
「分からない」を振りかざしたまま生きていることは、
「知っている人の感情を逆撫でして生きている」ようなものなのだろう。

「無知であることを知る」という謙虚さを持つことが、
「好奇心」を持つ上では大切な心構えなのかもしれない。

まとめ

結局のところ、なんでもそうだけれども、
「継続すること」が一番難しい。

「GWに感じた楽しみ」とか、「非日常のなかの没頭できていた感覚」とか、
「GWに挑戦してみたこと」とか…

新しいことに挑戦することは良いことだし、否定はしない。また、
束の間の「非日常」を特別な誰かと過ごす幸せを否定しようとすることもない。
ただ、それが無くなったから、辛い。となる日常は回避したいという、
ワガママな欲求を持つ人間が、一番やらないこと。

第一位、「継続」

偏見が入っていますね。多分に。

ただ、冷静に考えると、
自分が幸せを感じることの出来る趣味なり、余暇の過ごし方を
「継続」出来ているならば、
そもそも、五月鬱にはならないのではなかろうか?
おそらく、これは真理な気がする。

「継続」ね。「言うは易し行うは難し」の具体例ですね。
いかにして継続するか。
他人に「継続すること」は大切だよ。と言いながら、
自分に甘く、「継続」しようとして挫折することのなんと多いことか。

「普通の人がやらないことを平然と継続する」
こういうことを考えると、イチローさんの顔が右上辺りにありそうで。

結局、「自分はどうありたいか」これに対する、自分なりの答えを持ち、
その答えを体現する「習慣を継続する」ことが大切なのだろう。

「自分はどうありたいか」この答えは、
道端の石の中には無い。自分で考えなければ答えは出ない。
「好奇心」を持って世界を見ていれば、
「こうありたい」という姿が見えてくるのかもしれないですね。
見えないこともあるかもしれないけれど…

GWが終わり、
改めて、「継続したいこと」を見つめることが出来た時間だったかもしれない。
来週以降も、「継続したいこと」を「習慣」として体現出来るだろうか。
きっと、前に進んでいるという感覚があれば良いのだろう。
今週はこの辺で終わり。

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