今週、ようやく、アニメ『BANANA FISH』を見終わったので、
それについて色々書いていきたいと思います。
アニメの内容に関しては、多少触れる部分はあるけれど、
基本的には、ネタバレの無いように書くようにします。
『BANANA FISH』は鬱アニメと言われるけれど…
最近、食べログなどの評価を気にするのはおかしい。
といった類の話題もあったような気がするが、
この『BANANA FISH』においても、なんとなく、自分の価値観は、
周りとの価値観のズレがあるなぁ。と思っていた。
評判としては、「鬱アニメ」みたいなレッテルを貼られているが、
自分としては、これ以上ない感動作だと感じた。
ここ最近では一番だと思う。
食べログ問題に関しては、周りの評判や流行に合わせたい人が多いだけ。
という勝手な印象を持っているのだけれども、
文学作品やアニメ・マンガに対する価値観に関しては、
評判や流行に合わせるだけのものなのか、独自の解釈や価値観があるのか。
という2通りの考え方、あるいは楽しみ方があると思う。
以前、というか、2月末頃に書いていたらしい自分の拙い雑記では、
理解する力をもって、価値観をすり合わせようとする作業が大切。
といった類の内容を書いたような気がするが、
こと、文学作品やアニメ・マンガといった作品に対しては、解釈の幅を
楽しむものだと思っている。
この、『BANANA FISH』に関しては、作品の解釈を深めるだけの価値がある、
というか、内容を深く考えれば考えるほど楽しい・面白い作品だと思います。
原作のマンガもいずれ読みたいと思える作品です。
「鬱アニメ」と言われる所以は、結末が衝撃的だからだと思うが、
自分としては、その結末が感動的で、結末の15分程前辺りから
号泣していたくらいだ。
色々と作品に対する考えを深めてみる。
まず、作品を通して、過激な描写が多いことは言及しておきます。
ただ、その過激さが、主人公であるアッシュの絶望や救いの無い地獄を
描いているとも言えます。
そんな、すでに終わったとも思えるような人生を満たしてくれる存在が
たった1人だけでも居てくれるだけで救われることを見事に描いていると思います。
このことは、作中の随所に散りばめられているように思えて、
主人公だけでなく、周りの登場人物たちにも同じことが言えるでしょう。
人生を通して、多くの困難を乗り越える必要はあるし、その過程で、
精神的・肉体的な苦痛も耐えなければならない。ただ、
その苦痛を乗り越えた先に、たった1人でも信じ合える人が居たならば、
お互いに満たしあえる人が居たならば、全ての困難が、ほぼ皆無だったと
思えるほど幸せになるだろう。ということが伝わってくる。
主人公のアッシュに注目するならば、
図書館に籠もるシーンが描かれるのだが、その図書館は、そのまま、
アッシュ自身の心の中での人との距離感を表しているように思える。
最初のうちは、他人との距離感は遠く、文字通り孤独なのだが、
時間が経つに連れて、特に、奥村英二との距離感が近くなっていく様子が
見て取れる。作品の最後の方でのアッシュと図書館、その他登場人物たちとの
距離感は、注目に値するポイントだと思う。
作中での、死に対する解釈についても一応言及しておくと、
二通りの解釈が出来て、1つは、人を裏切り孤独になる場合と、
もう一つは、人を信じて救われる場合だ。
これに関しては、作品を通して見て考えを深めると楽しいポイントなので、
これ以上の言及はしないでおきたい。
現実に戻ると…
アニメは現実逃避が出来ると言われるが、その通りだと思う。
特に、『BANANA FISH』においては、自分としては、
アッシュの最後にめちゃくちゃ感動した。本当に。
最後に、これまでの全てが救われた気がしたからだろう。
きっと、ここに価値観のズレがあって、この作品を「鬱アニメ」と
そう言う人達は、地獄とも思える絶望を体験したことが無いか、
もしくは、その類の体験はあったが、すでに救われている人たちなのだろう。
自分の人生を通して、(自分にとって)地獄とも思える体験をして、かつ、
救われたとも思えない現状と、この作品を照らし合わせた時に、
そこに、一種の美しさを感じ取ることが出来た。それがきっと、
自分が作品を見て思った感動の本質なのだろう。
さて、アニメを見て「感動した。」だけだと味気ないので、
アッシュの気質についても触れておくと、真実を追求する彼の姿勢は、
落合陽一さんの著書『半歩先を読む思考法』の中の文章
後ろ向きに全力疾走しながら希望を叫べみたいな感覚を伝えたい
『半歩先を読む思考法』より
この感覚を体現していると思う。
過去は消え去るものではないし、未来なんてどうなるか分からない。
過去の地獄は目の前から消え去るわけではないけれど、
未来に向かって全力疾走しなければ、地獄を遠ざけることは出来ない。
後ろ向きに全力疾走しているから、結果がどうなるかは分からないし、
最終的には、過去の地獄コレクションの仲間入りをするかもしれないけれど、
それらを遠ざけるには、走り続けるしか無い。
まさに、『BANANA FISH』のアッシュは、走り続けたのだと思う。
地獄が遠くに感じるほどに、たった1人の存在によって、
満たされる結末を迎えたと、そう思う。
まとめ
現実の自分、もしくは個人、もしくは人間、あるいは人類は、
走り続けることで、救われるのだろうか?
基本的には、このような問を投げかける必要の無い人生が良い人生
なのだろうけれど、この問を仮に投げかけてしまった場合、やはり、
「努力を前提として、後は運に任せる」くらいの思考が丁度良いのだろう。
このセリフもまた、落合陽一さん。
ここ暫く、落合陽一さんの考えや発言に染まりすぎている気がする。
一旦、落ち着いても良いかもしれない。
さて、人生において「運」は、上振れるだろうか、下振れるだろうか。
スプラトゥーンでチャージャーを使っているのかな?
そんな風に思える人生も、走り続けないと、
運が上振れたか下振れたかすら、分からない。
人生、というか、一日を全力疾走し続けることを
念頭に置いておきましょう。どれだけ継続出来るかどうか。
それが問題。
そんなことを感じた一週間だった。
P.S. スプラトゥーン3の発売は、かなり楽しみ。
発売日が待ち遠しい。発売日まで、今出来ることに
全力で取り組もう。
コメント