お金の良い使い方は、「得難い経験をするために使う」
ということは、よく言われている?と個人的に思うけれど、
自分に対するご褒美?みたいな位置付けで、経験をしたことが、
やはり素晴らしいものだったことが、今週の学び。
物を買うよりも、経験を買うことの良さが1つ分かった、そんな週。
前提として、一芸を極めるために努力をする
ここ数年で、ほぼ初めて、自発的に「〇〇に行きたい」と心から思ったことに
時間を費やせたのが、今週。それは、
「反田恭平さんのピアノリサイタル」
正直な所、ショパンコンクールで、日本人最高位の2位を取る前から
行きたいとは思っていたけれど、タイミングを逃したのが前回。
今回、初めてプロのピアニストの演奏を直に聞く経験が出来たのが今週のハイライト。
安い感想を一応言っておくと、「素晴らしい演奏だった」これに尽きるけれど、
それは、後ほど。
さて、ピアノを極めようと努力を日々続ける人がいるように、
何か1つの物事を極めようと努力を継続している人は多くいる。
もちろん、反田恭平さんのように、コンクールで素晴らしい評価を得る人もいれば、
一方、努力を積み重ねても、評価されない人も、もちろんいる。
物事の光と影。目立つ人がいれば、一方、目立たない人もいる。
けれど、目立たないからといって、努力をやめてしまうのはちょっと違う。
ここらへんは、落合陽一さんの言葉で、
「努力は前提として、後は運に任せる」といった類の思考が
かなり適切なのだろうと、そう思う。
その継続された努力は、目に見えない糧となり、
その人のパフォーマンスを支える一部となる。
その努力の深さは、そのまま、1つの物事に対する思慮の深さとなり、
その人のパフォーマンスの感性に深みを与える。
努力をする方向性を決めるためにも、適切な環境に身を置くことが
大切な場合もあるだろう。
努力によって環境を選び取れるようになるのか、
環境が与えられて、努力ができるようになるのか。
「鶏がさきか卵がさきか」みたいな問答になりそうだけれど、
その実、どちらも同時に存在する必要があるのかもしれない。
努力することは当然で、そのタイミングで適切な環境が与えられることで、
一芸を極める道筋が出来上がるのかもしれない。
世界に認められた努力の凄さ
ショパン国際ピアノコンクール、世界三大コンクールの一角をなすコンクールです。
そんなコンクールで、日本人最高位の2位となった反田恭平さんのピアノコンクール。
権威の泊が付いたことによって、より一層多くの人に知られることとなった訳です。
コンクール、言い換えるならば、「芸術を評価する場」において、
彼の表現が認められた。という訳なのですが、やはり、認められるためにも、
努力は積み重ねる必要はある訳です。(世には、努力をせずとも認められる人もいれば、
努力をしていないのに、認めて欲しいと言う人もいるわけで…)
さて、その演奏は、言わば、大きな川の流れのような、時に激しく、時に深く、
時に静寂が訪れ、またある時には、清らかで澄んだ感情が流れてくるような
そんな心地よいものでした。
音に包まれる心地よさを味わいながら、気づけば約2時間のリサイタルは、
あっという間に終わっており、自分の身が、音に洗われるような感覚を
味わうことが出来たと、勝手に思っています。
音楽から伝わる感情や、情景が心地よく、
その透き通った感性に癒やされた2時間だったと、振り返って思います。
自分のクラシック音楽に対する知識や教養が、まだ浅いこともあり、
隅から隅まで理解をしたかと言われると、そんなことはないけれど、
クラシック音楽を楽しむ機会を得ることが出来たことが、
今回の収穫だったかと思います。
普段の日常では、プロのピアニストによる演奏を聞く機会もないですし。
素晴らしい体験だったことは、間違いありません。
リサイタル終了後に、ふと気づいたことと言えば、
脳の疲労感が半端なかった。ということくらいでしょうか。
これはきっと、知らない楽曲に対して、どのような音楽だろうかと、
思慮を巡らせたり、次の音はどういったものかと、予想してみたり、
知っている楽曲については、どう表現するのだろうかと問うてみたり…
そんなことをして2時間過ごしていたからかもしれません。
知らないことに対して、疑問を持ちながら、問いかけながら、
主体的に取り組む姿勢は、何事においても大切だと思っている自分が、
久しぶりに、主体的に知らないことに対して「問いかける」という
行動をとったから、脳も疲れたのでしょう。
決して嫌な疲労感ではなく、心地よい疲労感に包まれながらこの記事を書いています。
そう。知らないことに対して「問いかける姿勢」、
言わば主体的に取り組む姿勢、というのは、何歳になっても大切。
受動的な、特に、「答えが与えられるのを待つような」姿勢でいるうちは、
何も学べないのだろうと思っています。
「色々な人を見てきた経験」からも、これは実感していることでもあります。
さて、ホールの中に響いた音は、空気の波となり、自分の耳から脳の記憶の中へと
取り込まれていったわけなのですが、いずれ、
この感動も薄れていくのかもしれない…
記憶は朽ちて、取り出せなくなるのかもしれない…
あの、清流のような感性に包まれた感動を思い出せなくなるかもしれない…
と思いながら、今は、鮮やかな、とりわけ記憶に残った演奏を思い出しながら、
感傷に浸っていようと思っているわけで。
落ち着いた頃合いに、次は書籍から、反田恭平さんの
感性や人となりを理解してみようかと思っている「今」といったところです。
珍しく、現地で書籍を買うということをしてしまったので…
衝動買いに近い買い物をしてしまった…
まぁ、自分なりに色々な理由をつけて、買ったことを正当化しておこう。
コンサート会場で発売日前に、
しかも、コンサート会場限定カバーで買えたから…
一応、よしとする?
何か、色々な影響力に負けた気がするけど…
その時にしか出来ない経験を求めて
お金を使って、多くの物を必要としている訳ではない。
けれど、今回、お金を使って、その時にしか経験出来ないことを経験して、
実感することは、結局、人は「今」にしか生きることが出来ない。ということ。
先々のことを考えることも、もちろん大切なのだけれど、
それだけだと、「今、この瞬間」を失ってしまうことになる。
「今、この瞬間」にしか居れない自分が、最も経験したいことを
経験しながら、緩やかに、時間という波に乗る。
ついでに、出来る範囲で、先々のことを考えておく。
この、「今と未来のバランス」が大切な気がする。
けど、一番難しいことな気もする。
考えすぎは良くないのかも。
思考ではなく、感性でもって体感出来たリサイタルは
本当に心地が良かった。それを、一応書き記しておきたい。
もう、完全に自分の日記みたいな、そんな記事だけれども、
まぁ、雑記(日記)だから、別に良いか。
音に癒やされて、心が満たされた経験を持って、
これからも自分なりに、ピアノは弾いていきたいと思いました。
良ければ、自分の独学のピアノ日記も御覧ください(笑)
今週はこんな所で終わりたいと思います。
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