この週のハイライト
漠然とした「ヤバい」という焦燥感の原因を突き詰めてみると、
実は、頑張り過ぎだったり、無理な目標を実現させようとして、
自分を追い込んでいるのではないだろうか。と改めて思う。
この漠然とした「ヤバい」という感覚の積み重ねによって、
身動きが取れなくなったり、新しいことに挑戦しなくなったり…
要は、自己肯定感の低さに繋がってしまうのではないだろうか。
なんてことを考えた。思考の過程を1つずつ丁寧に書き記しておこうと思う。
漠然とした「ヤバい」という自分に対する追い込み
予定通りに物事が運ばなかったりすると、
この「ヤバい」という不気味な思考が顔を出す。
この漠然とした「ヤバい」という感情が本領を発揮すると、
「何で〇〇しなかったんだろう」という罪悪感に繋がるように思える。
実際は、特に「ヤバい」訳でも何でもないのに、
無駄に自分を追い詰めることで、余計に自己嫌悪に陥ることもある。
自己嫌悪という悪魔が顔を出すと、今度は、
「自分は何をやってもうまくいかないんだ…」とか、
「改善しようとしても無駄。どうせ上手くいかないし…」みたいな、
専門用語で、「学習性無力感」という死神が自分を狩りに来る。
本来、この漠然とした「ヤバい」という感覚は感じる必要がないのだけれど、
この感覚に支配されてしまう、奈落の底に落ちるような感覚に陥る瞬間もある。
一体、いつから、こんな訳もわからない、漠然とした「ヤバい」みたいな
不安を心に飼い始めてしまったのだろう。育つと死神になってしまうような
それこそ「ヤバい」やつなのに、何で自分の心の中に居座っているのだろう。
と、考えてみると、ある1つの原因になっていそうなものに気がついた。
それは、「目標」である。
「目標」を立てることは素晴らしいことです。
「目標」に向かって頑張りましょう。
たとえ「目標」を達成できなかったとしても、頑張ったならそれで十分
「目標」を達成出来たなら、これからも頑張りましょう
みたいな、訳もわからない洗脳に似た教育を受けてくると、
より高い「目標」を持たないといけない
みたいな圧力に苦しむことになる。
学歴社会と言われる現代がこれを象徴していると思うので、
これ以上の言及は必要ないと思うけれど、
万人が、この「目標」に苦しめられているように思える。
そう。この社会を見ると分かる。「目標」に打ち勝った人なんて、
本当に一握りである。
「目標」があるから色々な感情を抱いてしまう
もちろん、「目標」の全てが悪いというわけではない。
良い面もあるし、そのおかげで成長できる場合もある。
ただ、今回は、ネガティブな側面だけを拡大して見てみたいと思う。
これまでの人生で、
「目標」を立てましょう!とは言われるけれど、
その目標を、このように達成してみましょう。
と言われたことは無いと思うのだけれど、どうだろうか。
周りの「大人」と言われる人間は、
「目標の設定は大事だから。」と言うけれど、
果たして、どのように「目標を達成するか」の
アドバイスを、彼らはしていただろうか。
結局の所、「目標」を持たないとダメ。
だけれど、その「目標」を達成する方法は自分で考えないとダメ。
と言われて終わるのがオチではないだろうか。
結局、「目標」があるということを口実に、
自分はそのために頑張っているのだということを
ただ、アピールしたいだけなのではないだろうか。
「目標」を達成した人は称賛され、
達成できなかった人は、落ちこぼれ扱いを受ける。
この世の理のように思えるけれど、
「目標」を達成することが当たり前。みたく思ってはいけないと思う。
高い「目標」に潰されて、
立ち直るまでに何年も掛かってしまう人だっているはずだ。
そもそも、「目標」に潰されてしまうくらいなら、
「目標」なんて無いほうがましなのではないだろうか。
あるいは、「目標」の在り方を、改めて考え直すべきではないだろうか。
「目標」は道筋。
自分を見失わない程度に道筋があれば良い
そう。
「目標」を、自分が向かうべき方向性、
あるいは、道筋程度の認識にしておけば良いのではないだろうか。
よく、人生はマラソンと表現されるけれど、
それすら言い換えたほうが良いと思う。
「人生は、終わりのない障害物競走」
人生のありとあらゆる時と場合において、
自分を潰そうとしたり、あるいは誘惑する障害物に出くわす、
そんな障害物競走。ゴールを見失うこと無く走りきれるだろうか。
そんな勝負。
人生という、過度なアメとムチが用意されている障害物競走では、
自分を律することが重要になってくるのだけれど、
これが本当に難しい。
どうやって、自分が向かう方向性を
常にはっきりとさせておくかが重要のように思える。
どうやって、この問題を解決するのかだけれども、
一応、道筋としての「目標」は決めておいて、
「目標」に向かって走り出したら、一旦「目標」を忘れるくらいが
ちょうど良いように思える。
「目標」を決めた後では、その「目標」に近づくためにすべきノルマを
日々こなすようにする。時には寄り道したり、
ちょっと高級な宿で休んだりしたって良い。
そう、日々の「ノルマ」さえクリアしていれば、それで十分だと思う。
ここで、「ノルマ」を「目標」と履き違えてしまうと良い結果にならないから注意。
「ノルマ」は、本当に最低限のこと。
それをちょっと続けていれば、いずれはゴールに着くくらいで良い。
気長に、ゆったり続けることができればそれで良い。
このマインドセットが大切だと思うのだけれど、
最近は、最速で結果を出さないとダメ!みたいな風潮があるから、
自分としては、世間とのズレを感じてしまう。
最速の結果を出そうとして、結果を出せていれば良いけれど、
結果が出ているのを見た試しがない。長期的なことを考えることが
出来ている人なんて、本当に身近にいるのだろうか?
長期的に見て結果が出るかも、すぐに結果が出るかも分からないのが人生。
だけれど、日々努力を積み重ねることだけは大事だとは思っている訳で。
日々、努力なんだかサボりなんだか分からないことをしている人を見ると、
結局の所、人生なんて、その時の運が99%くらいなんじゃないかと思う。
人生なんて、結局不条理。
とりあえず、上振れることを期待するなら、努力は必須だとは思うけれど。
つらつら書いたけれど、
亀みたいな「ノルマ」でも、やらないよりかは、
達成したほうがましなのではないだろうか。
この話題は、ダイエットに置き換えるとよく分かる。
①一日二食で、毎日10kmランニングを一週間継続するか、
②いつもの食生活で、生活の中にほんの少しの筋トレを入れて毎日続けるか。
1年後とか3年後とかの単位で見ると、②の方が良いことは分かる。
けど、結局、それを実践できる人は案外少ない。
ここで、前に書いたことを思い出してみよう。
これまでの人生で、周りの大人の中に、
「目標」も大切だけれど、「目標」のために
毎日、自分で決めた「ノルマ」を達成するほうが大切。
と説いてくれた人はいるだろうか。
もし、いるならば、それだけで十分恵まれた環境だと思う。
もし、いなかったならば、これから、
日々、何らかの「ノルマ」を達成できるようにしてみると楽しくなると思う。
まとめ
タイトルの伏線回収。
「自己肯定感の低さの原因は、実は目標なのでは?」
ということを書いてきた訳だけれども、
高すぎる目標→達成できなくて自己嫌悪。
低すぎる目標→その後に自分より凄い人に出会って自己嫌悪。
というのは、もはやデフォルトみたいなもの。
結局の所、いかに他者と比較しないようにするか。
あるいは、自分自身の「日々のノルマ」に忠実でいられるか。
究極的には、「日々のルーティーンを崩さずに生きれるか」
ということが問題になっていると思う。
「現代人は忙しいから…」みたいなことを言うけれど、
この現代人の忙しさは、産業革命以降から、改善したのだろうか?
かつてのイギリスの労働者階級ほどの辛さはないかもしれないけれど、
物質的にも豊かになっているはずの現代は、果たしてどうだろうか。
未だに、労働の奴隷となっていないだろうか。
資本主義も、そろそろ、転換点になっても良くない?
なんて妄想を繰り広げてしまう前に終わろうと思う。
「日々少しのノルマ」を達成し続ける。
そんな人生は、長期的に幸せになりそうだけれど、
果たして、本当だろうか?
自分自身が実験体となって、検証するしかないところ。
人生はそんな、仮説と検証の繰り返し。
楽しんで仮説検証を繰り返せるようになると良いのかもしれない。
今回はここまで。
何かを頑張ったなら、少しのご褒美くらいは用意しても良いよね!
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