2022 8/8~8/14 充実した休みと、そうじゃない休みの違い

今週は、まとまった休みがあり、自分のやりたいことに
向き合えた週だったと思うのだけれど、
休みが終わりに差し掛かると、常に、充実してました系の
ニュースがあったりする。それを見るたびに、
「どこかに行かないと充実した休みにならない」みたいな
洗脳があるような気がしてならないのだが、
今の時代は、どこにいようとも、世界と繋がれるし、
どこにも行かなくたって、充実した休みは送れるはず。
そんなことを思いながら、書き進めてみようと思う。

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「幸せ」はバブル。「達成感」は筋肉痛。

いわゆる、「ポジティブ」な言葉の定義ということですが、
日々生きていると、「望ましいこと・物」を得ないとダメです。
みたいな感覚に包まれているようにも思える。

何か「確固たる幸せ」があって、それを求めないといけなくて、
実際に手にすることが出来たら、「幸せな人生」。
得ることが出来なかったら、いわゆる、「ダメな人生」のような、
二元論で、片付けられているように思える。

ここに、自分としては違和感があって、
いわゆる「ポジティブな言葉」でも、人によって定義は異なるよね。
大枠として、嫌なこととか、善いことを共有は出来るけれど、
本質的な部分だったり、根本的な部分に関して、本当の意味で
共有出来るかと言われると、怪しいと思う。

だからこそ、「充実感」の押し付けだったり、
「勝ち組の人生」の押し付けに関しては、嫌気が差してしまう。
実際、「ポジティブ」な感覚を、ある1つの定義で推し測ることなんて
出来なくて、個人間で、多少のズレとか、認識の相違がありながら、
なんとなくの、漠然とした空気感を合わせているに過ぎないのだと思う。

そういった、なんとなく好ましい空気感を楽しみたい人たちにとっては、
フワっとした、「楽しげな空気感」=「幸せ」みたいな感覚なのだろうけれど、
この空気感は、言ってしまえばバブルみたいなもので、
弾けたら消えて無くなるものの印象が強い。

バブルみたいなフワっとした「幸せ」ではなく、
もっと、確固とした、充実感や達成感は、無いものだろうか。
バブルではなく、コンクリートくらいの硬さの信念にも似た
充実感なり達成感を感じることは出来ないだろうかと思う。
フワっとした休みを満喫して、バブルが消え去った後に
現実に戻されて、燃え尽きてしまう人を想像すると、
なんとも言えないのだが、そのバブル的幸せが素晴らしい
みたいな報道だったりを見ていると、余計に、無駄な報道だなぁ。
と思ってしまう。

ここまで書いて、思考が整理されてきて思う。
「幸せはバブル。実態なんて無い。」
「達成感は、何かを作り出した後の筋肉痛みたいなもの」

個人が持つ「幸せ」に対する価値観を、他者に押し付けることに、
きっと嫌気が差しているのだろう。
「幸せ」を感じるより、「達成感」を感じるほうが良いと思うのは、
不自然だろうか?
「達成感」を得るには、代償として、「努力」を支払わなければいけないが、
何も支払わない「幸せ」よりも、価値があると思う。

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「達成感」は、身近にある。

休日も終わりに差し掛かったときのあるある。
「結局何も出来なかった」
と思うこと。

この「結局何も出来なかった」という言葉が、
意外にも、短絡的な部分があるので、翻訳し直してみる。
「結局、休みが十分あったのに、
何も、自分が理想とする時間を過ごすことが
出来なかった。そんな自分に嫌気が差す。」
こんなところだろうか。

この「理想とする時間」にも、色々あると思うけれど、
なぜ、旅行が充実した休日と言われるのかを考えてみると、
自分が計画を立てて、計画通りに実行するのが「旅行」
つまり、計画通りに物事が運んだ。という達成感、
つまるところ、自分で自分を律することが出来たことの筋肉痛みたいな、
そんな感覚が、達成感であり、充実感の正体なのだろうと思う。

この、「自分で自分を律する」という言葉だけを聞くと、
ハードルが高く感じてしまうのだろうけれど、
ほんの、数時間、計画的に行動することが出来るだけでも、
「自分で自分を律する」ことができれば、上出来だと思う。

これは、もはや、筋トレと同じで、
「自分で自分を律する」トレーニングをしないと、
惰性で生きることになってしまう。
「筋肉痛」を恐れてトレーニングをしないと、
何も成果を生み出すことが出来ないのと同じで、
「自分で自分を律する」その結果味わうことが出来る「達成感」を
実感することが無いと、誘惑が蔓延るこの資本主義社会においては、
文字通り、「食い物」にされてしまう。
まずは、数時間、あるいは、数十分からでも、良いと思うので、
小さな「達成感」を実感することが、いつでも充実した生活を送るための
第一歩なのだと思う。

そんな、自分は、自らの行動記録を付け始めて、4年目。
自分の行動を、もはや、ブロックのように捉えることが出来るので、
新しい習慣も、ブロックを置き換えるように自由自在。
どの行動に、どれだけの時間がかかるのかが分かっているので、
ペースは乱れないですし、まとまった休みなら、
自分が新たに始めたいことのための情報収集の時間、
あるいは、空白の時間を生み出すことも出来ます。

「行動の記録を付ける」という、単純な作業ですら、「達成感」はありますし、
何より、一年を振り返ることも楽しくなります。
記録を付けることが出来たなら、それだけでも、「達成感」に繋がります。
「新しい習慣を身に付けたい」と思う人や、
「何か新しいことを始めたい」と思っている人は、
オフラインで良いから、自分の行動記録を付けてみることをオススメします。
メリットしかない「達成感・充実感」を味わう方法だと思います。

記録に手間をかけたくないなら、
スマホのカレンダーに記録しておいても
良いかもしれません。
自分もスマホのカレンダーに色々記録してます。
この辺りは、お好みで記録を付けてもいいと思います。

まとめ

休みだった。ということもあり、特に、ネタは無いように思えたけれど、
意外と大事なことを書いたのではないだろうか。
この辺りも、自分の尺度。
結局の所、自分のものさしで、物事を測ることが大事なのだろう。

「他者」に依存してもらったり、あるいは、
「他者」に依存してしまったり。
そういった関係には、いずれ破綻が訪れるように思える。
また、「他者」に認めてもらおうと努力したり、
「他者」の空気感に合わせるような行動も、いずれ、
限界が来るのだと思う。
その限界を迎えてしまった反動が、
「自分の心と体のシンクロ率の低下」なのだろう。
「自分という軸」をいかにして保つのか。
あるいは、「達成感」の積み重ねを、どう継続するのか。
こういったことが、他者に惑わされず生きる上で大切なのだろう。

「幸せ」=バブルみたいな感覚を書いたけれど、
「生きること」=バブルと捉えても良いかもしれない。
すべての「言葉」で表せるものには、実体は無く、幻想。胡蝶の夢。
人はただ、今ここに存在することしか出来ない。
「言葉」は、最低限のイメージを共有するための「記号」であって…

なんてことを書き出したら、訳わからんことになるので、
迷走する前に区切ろうと思う。

「自分の行動を自分で律すること」は大事。
自分で自分を律するためのトレーニングとして、
日々、記録を付けることは、最適解。
自分自身の行動の記録を付けるメリット、
それは、
自分の時間を自由に操れるようになること。

人が生きることの出来る時間は、限られているくせに、
いつ終わるか分からないという仕様なので、
自分で自分の時間をコントロール出来るうちは、
しっかりとコントロールしておいたほうが身のためのように思えます。
結果的に、自分が本当に必要とするものが分かりますし、
最終的には、誘惑に負けることのないメンタルが手に入ります。
記録の力は偉大です。
自分の思考の記録は、ブログとして保存されていますが、
これはこれで、面白いので、有りとしておきましょう。

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