2023 1/23 ~ 1/29 みんな違ってみんな良い。一周回ってそんな話。

日記

2022年の8月に、「みんな違って、みんなどうでもいいの間を埋める」
というタイトルの日記を書いていたけれど、最近、改めて、
「みんな違って、みんな良い」と思えるような出来事が続いているので、
そんな話。結局、「みんな違って、みんなどうでも良い」かもしれないけど。

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最近読んだ本①:『人新世の「資本論」』より

自分の価値観では、「資本主義」という考え方だったり、
「資本主義」の時間の流れというものが早すぎるように思えて、
常々、言い表しにくい違和感というものを感じていたのだけれど、
この本は、その違和感の正体を、キチッと言葉で言い表してくれていた。

今もそうなのだけれど、例えば、車。
車のデザインが好き。とか、車のこの部分が好き。
という人を否定するわけではないけれど、
なんなら、自分も子供の頃は、車を好きすぎていたらしいのだけれど、
今となっては、不思議なことに、「移動手段」という視点でしか
車を見ることが出来ない。

「移動手段」であって、バス、電車、地下鉄、車のどれもが同じもの。
なので、車のデザイン等には、正直、こだわりもなければ、
移動出来れば、それで良い。くらいに思っている。
そんな車も、資本主義社会においては、価値や値段に格差があって、
〇〇を持っているなんて…とか、ステータス的な一部になっている。
そんな風潮に違和感があったのだけれど、違和感の正体を、
この本、『人新世の「資本論」』を読んで、言葉で理解した。

その違和感の正体は、「希少性」。

資本主義社会においては、「希少性」という価値基準で、物事が測られ、
交換価値としての「貨幣」が独り歩きしている。
もの自体の「使用価値」、(車においては、移動するということ)
その「使用価値」以上の価値が、「希少性」を演出することで、
取引されているのが、「資本主義社会」であると言う。

この本は、経済学に関する本なので、経済がメインなのだけれど、
これからの社会では、「交換価値(貨幣のやり取り)」ではなく、
もの自体の「使用価値」に注目しないといけないということを伝える。
(かなり大雑把にまとめると、こんな感じ。)

さらに雑な言葉使いで、言い直すならば、
ものを入れるカバン。どんな見た目をしていても、
ものを入れる。運ぶ。ということが出来れば、
何でも良いんじゃない?別にブランド品である必要はないよね。
ということ。

もっと突っ込んだことを言うと、
「水」は、全人類が必要とするものなのだから、
ブランドの「水」なんて、そもそも、必要無くない?
全人類で、共同管理すれば良いのでは?
という、資本主義社会に対する提言も交えながら話は進む。

ここに1つ、「みんな違って、みんな良い」という考えが見て取れた。

ブランドだろうと、なんだろうと、
その人にとっての「使用価値」があるのだから、
別に、良いも悪いも無いのでは?

ブランドを持っていることで、ステータスのアピールをしたいのも分かる。
それはそれで良い。でも、自分はその世界線には、住んでいない。
ただそれだけのこと。

自分にとっての「使用価値」が明確ならば、
他者が持っているものと、自分が持っているものを比べる必要がない。
結果、「みんな違って、みんな良い」という訳だ。

経済学の視点から、結局の所、
自分にとっての「使用価値」を明確にすることが大切であるということに、
改めて気付かされた一冊。

最近読んだ本②:「暇と退屈の倫理学」

さて、経済学の視点から、
自分の価値観が大事。
ものの「使用価値」をちゃんと考えよう。
ということを見た。

けれど、やっぱり「楽しみたいじゃん!」という考えになる。

ただ、『暇と退屈の倫理学』を読んでいると、
「楽しみたい!」という考えも、一歩引いて考えさせられる。

印象に残っている部分を抜粋すると、
人間、誰しも楽しみたい気持ちはある。
ただ、この資本主義においては、「娯楽」というものすら、
デザインされ、「希少な情報だ」という価値が付加され、
ある「娯楽」を消費することが「楽しいのだ」と思わされている。
と述べる。つまり、
本質的に、楽しくはないけれど、楽しいと思わされているという考えである。
もっと刺さるように言うと、
「テレビの情報で、良いものが紹介され、
それを実際に手にすることは、一体どういうことなのだろう?」
「その行動は、自分の本心で楽しもうとしていることなのだろうか?」
「メディアに踊らされているだけでは?」と。

この2冊の共通点は、まさかのマルクス。
経済学の視点でもマルクス。
哲学の視点でもマルクス。
この短期間で、ここまでマルクスに触れるとは思っていなかった。
何か分からないけれど、そういうタイミングってあるよね。

この『暇と退屈の倫理学』では、
自分が心から楽しいと思えることに向かっているか、
あるいは、暇を持て余し、退屈しているか。
そもそも、退屈とは何か。を考えるのだけれど、
様々な側面で、「生きる」とは何か。を考えさせられる。

脱線しそうなので、この記事のテーマである、
「みんな違って、みんな良い」に戻ろう。
この『暇と退屈の倫理学』では、
「環世界」という考えにも触れながら、それぞれの動物は、
それぞれ違った世界を生きているということも考慮する。

種としての動物はそれぞれ違った時間軸だったり、
世界観、いわゆる、環世界を生きている訳で、
個々の人間においても、それぞれ独自の
「環世界」があって然るべきと説く。
自分自身の時間軸。自分自身の価値観。それは、
他者と同じという訳ではない。
つまるところ、「みんな違って、みんな良い」ということになる。
「違うから排除する。」という思想は、
歴史的に見ても、よろしくない結果を生んでいる。
多様性の社会をしっかりと見つめていきたい。

さて、人間なら、1つの考えを共有は出来るけれども、
本質的に同じ考え、時間軸、価値観であることは、きっと無い。
だからこそ、自分と分かり合える人と出会うと感動する。
そういう出来事があったなら、それは大切にしたいのだけれど…
本当に稀だからこそ、「みんな違って、みんな良い」という
マインドセットを持っていたほうが、楽が出来ると思う。

この哲学書は、様々な側面から、「退屈」という現象を見つめ、考え直す。
その考える過程がとても心地良い。
この本を読んでいて、自分が感じる、この世界に対する違和感を、
1つ解きほぐしてくれたと思う部分は、
資本主義において、「楽しい」と思われる、
そんな「娯楽」が与えられている状態に甘んじて、
自分自身が「楽しい」と思えるものだったり、
自分を「満足させる」ものを追求する力が削がれているのでは?
という考察だ。

完全に個人の価値観なのだけれども、
修学旅行のディズニーランドだったり、
何かと経験するパーティー的な出来事だったり…
決められた施設で決められた時間に、「楽しむ」ことは、
本当に「楽しかったのだろうか?」と、
この本を読んで考えさせられた。

「与えられる楽しみ」を楽しんでいる最中は感じないかもしれないけれど、
終わった瞬間にふと思う。あれは、一体何だったのだろうと。
唐突に虚無感に襲われたり、退屈を感じたりする。
だからこそ、個人的な趣味を、自らが没頭できる何かを持つことが大切だと思う。
それすら、「みんな違って、みんな良い」なのだろうけれど。

まとめ:やっぱり、価値観の押し付けはよろしくない。

初任給は、親孝行のために使うべき。とか、
女性は育児をしているから、リスキリングするべき。とか、
そんな、〇〇するべきという発言に関しては、全力で否定したい。

特に、最近は、育児をする女性にリスキリングを推奨する
訳の分からないことを言い出した方もいたようですが。
育児そのものがリスキリングなのでは?なんて思うのは自分だけ?

そもそも、育児はしないといけない。
けれど、お金もないから働かないといけない。
そんな板挟みの状態もあるし、
そんな状態に陥っている、あるいは、
そんな状態に陥らせている社会自体がおかしい。
北欧を見習え。
心から、そう思う。
どんなに頭が良くても、集団になった瞬間に馬鹿になるから、仕方ないけども。
育児にかかる手間や金銭的な負担を考えて、
今の若者(この言い回しも嫌だけど)は、結婚すら控えたりする。
そもそも、先行きが不安だから…と保身に走る。
自分の生活だけで、精一杯なのだ。
とりあえず、まだ、保身に走る政治家よりかは潔白だ。

とまぁ、色々な出来事があった一週間だったようで、
文句の1つも言いたいような世の中だけれども、
「みんな違って、みんな良い」
そんな寛容な心を持ちながら、
日々を過ごしていければ良いなぁ。と思う。
願わくば、そんな平和で寛容な世の中があるなら素晴らしい。

あまり過度な期待をせず、自分で出来ることにのみ集中しよう。
明日からも、感謝を忘れず、生きていこう。

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