いわゆる、自分が安心できる環境(コンフォートゾーン)の
その先にあるものを、よく考えてみよう。というテーマ。
コンフォートゾーンの内側にいると…
自分自身が安心できる環境のことを、コンフォートゾーンと言うけれど、
その「コンフォートゾーン」は、言ってしまえば、ぬるま湯みたいな状態で、
ずっと浸かっていたい環境である。
そんな、「コンフォートゾーン」に留まっているままだと、
自分自身の成長を望むにも、限界はあるし、成長しようとしても、
様々な制約を受けないといけなくなることもある。
「コンフォートゾーン」は、心地が良くて、ストレスもなくて、
そんな、安心できる場所な訳だけれども、
リスクを考慮しながら、ちょっとずつでも、コンフォートゾーンの
外側を目指して、自分を変える努力をする必要はあるのだろうと実感している。
自身の価値観を保持して、それを持ち続けることも大切だけれども、
価値観を維持しながら、挑戦することも、同様に大切だと思う。
コンフォートゾーンの内側に留まり続ける事による弊害は、
挑戦することに対して、抵抗感が増えてしまうことだと思う。
もし、何かに挑戦しようと思って、抵抗感を感じたら、
「コンフォートゾーン」の内側にいることを自覚できるし、
そもそも、抵抗感を感じないなら、それは、挑戦しようとしている
意欲に溢れているときなのだと思う。
コンフォートゾーンの外側に出ようとすると…
「コンフォートゾーン」の外側に出ようとすると、
真っ先に、「ストレス」を感じる。それは、不安の形かもしれないし、
恐怖感、緊張、あるいは、抵抗感かもしれない。
そういった類の感情を抱くことは、ごく自然な反応であることを理解することは、
正直大変だし、未だに、自分でも、新たな挑戦は嫌だなぁと思うこともある。
けれど、「ストレス」を感じない、内側に留まっているだけでもダメ。
そう心に思いながら、また、「ストレス」を乗り越えた先には、
何か新しい出来事が待っていて、そういった、新しい出来事がある環境を
自分の「コンフォートゾーン」に出来れば、間違いなく何かしら成長できるはず。
もちろん、挑戦することには、リスクが伴う場合もあるから、
それなりにリスクを回避しようと、戦略を立てた上で、
何かに挑戦することは、とても良いことなのだろうと思う。
こういったことを、一周考えないと、新しいことに挑戦しようとも思えないから、
かなり終わっているとは思うけれど、一旦、考えを巡らせる時間は欲しい。
まとめ:学び続けることは、
ストレスを力に変えること。
何か新しいことを学んでいると、「分からない」ことだったり、
「自分の無力さ」に直面することになる。
いつからか、そんな「困難な状態」を楽しめなくなる。
子供の頃は、無邪気に、健気に、そして、危ない橋を堂々と渡るけれど、
年を取るに連れて、そんな危ない橋を渡らなくなり、また、楽しむことも無くなる。
あぁ、きっと、大人になることで、忘れてしまうことは、
「学びの最中に遊ぶこと」だったり、「遊びを通して学ぶこと」なのだろう。
昨今は、そんな遊びすら、禁止されてしまう始末。
公園で遊ぶことが禁止されるという、訳の分からない矛盾があるけれど、
遊びの中で、度を越した遊びをして痛い目を見て、学ぶこともあるはず。
流石に、器物損壊くらいまでいくと、笑えないけど。
「学び」には、そんな「分からないことに対するストレス」だったり、
「自分の無力さに対するストレス」を感じることが多分にある。けれど、
そういったストレスを「楽しみながら」ちょっとずつでも、
自分の力に変えていく。「ストレス」を「コンフォートゾーン」の一部にする。
そんなことが出来たならば、学びは止まらないし、成長も止まらない。
きっと、自分の中に、色褪せない青春が目の前にあり続けるのだろう。
「ストレス」に対する視点を多少変えてみて、
「ストレスを感じること=嫌なこと」の場合もあるけれど、
「ストレスを感じるような挑戦=コンフォートゾーンの外側に出ようとしている時」
と捉えても面白いのではないだろうか。
もちろん、「極端に嫌なこと」からは、逃げたほうが良い。
それは間違いない。けれど、成長の過程にある「ストレス」は、きっと
力に変えることが出来るはず。
一言で「ストレス」と言い表すことは簡単だけれども、
自分が何をしようとしていて、どんな類のストレスを感じているのかを、
多少細かく自問自答したり、確認してみる作業も、大切だと思った週だった。
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