ルッキズム(lookism)とは、外見重視主義、外見至上主義、美貌差別、外見差別、外見を重視する価値観などとも呼ばれます。そんな「ルッキズム」という言葉から、日本の文化的価値観だったり、考え、幸福って…とか考える記事。
ルッキズム。見た目で判断することの良し悪し
ルッキズムとは、外見のみを重視して人を判断したり、容貌や容姿を理由に差別的な扱いをしたりすることです。外見を意味する「Looks」と、主義を意味する「ism」を組み合わせた言葉です。
ルッキズムの例としては、次のようなものがあります。
- 業務内容と関係が無いのに、肥満体型が理由で採用選考から落とした
- 「二重こそが美しく、一重は醜い」と周囲に発言した
- 「白い肌の方が、黒い肌より美しい」と周囲に発言した
- 服装がマジョリティに属していないという理由だけで疎外した
近年、国内外でこのルッキズムを問題視し、見直そうという動きが広まってきました。
国内外で。ということもポイントかもしれませんが、海外においては、人種差別というものがかなり厳しく非難されてきていて、その流れから、見た目で判断するのもNGだよね。という感じだろう。
こと、日本においては、「差別」という意識が、島国であるからか、かなり薄いというか、むしろ内側にいることで安心するというか、外の人、部外者を受け入れにくい実情があるかもしれない。その文化的、あるいは、立地的な条件から考えると、差別というより先に、内側に入れていい存在か、そうじゃないかが判断の基準になっているように思える。
んで、内側に入ったなら、内側のルールを守ろう。みたいな。内側に入っているなら、みんな安心だね。みたいな。生ぬるい感じの関係が始まるような感じもする。
兎にも角にも、色々と、「見た目」を気にするのが日本人なのかもしれない。
顔のバランス、二重かどうか、肌がきれいかどうかといった見た目、学歴という見た目、あるいはフィルター、業種、企業名、ブランド、あるいは、役職といった、一言で分かる、見た目になりうる指標としての言葉の数々。
確かに、人は嘘で身を守るかもしれない。もしくは、見た目に頼って、「自分」という存在を確立しているかもしれない。どれも、確固とした「自分」という存在に自信がないからか、あるいは、「自分」でいることが不安であることの表れかもしれませんが、そういった分かりやすい指標で理解できるほど、世の中簡単ではないし、他人という存在は、それほど軽くない。
けれども、そういった「軽い言葉」だったり、「見た目」で判断する人が多いのは、考えるというステップを省いているからにほかならない。
日本人が、年齢を重ねるに連れて学ばなくなるというのは、世界的な調査でも明らかになっている。学ばなくなるどころか、思考を放棄していくような流れになっている感じもある。この「ルッキズム」という言葉以前から、「学歴社会」とか、「男尊女卑」とかいう言葉もあるくらいで、「負け犬」とか酷い言葉もあるし、果たしてセーフティーネットはあるのか?とか、チャレンジした結果失敗した人に対する扱いみたいなものが、ことごとく悪いとは思う。
誰が完全無欠で、失敗しない人なのか。どうすれば、そんな都合の良い人生を歩むことができるのか。人生なんて失敗ばかりでしょう。でも、リスクだったり失敗を極端に恐れ、避けようとするのが日本人らしさ、(らしさで片付けたくはないけれど)そんな気もする。「私、失敗しないので」とか言うセリフが流行ったのは、そんな人生を望むからでしょう。きっと。
言葉は文化を表す
まず、紹介しておきたい人。柳田國男。
柳田國男(やなぎたくにお、1875年(明治8年)7月31日 – 1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の民俗学者・官僚です。日本民俗学の創始者として知られ、民俗学の父とも呼ばれています。
柳田國男は、日本各地を巡り、伝承、慣習、風俗などを調査し、日本において民俗学という学問を確立しました。彼は、英雄豪傑の歴史からは疎外された「平民」の生活史をくみ取るために、そして、彼ら自身が「自らを知るための学」として民俗学を確立し、整備しました。
民俗学の研究の目的は、日常意識されることの少ない慣習的な行為やことばを調査することを通して、人間の生き方を深いところで決定していく集合的な文化を明らかにすることにあります。民俗学の研究の手法として、文献資料のほか、現代社会に残存する文化・風習・思考の様式を重視します。民俗学の研究対象とする「民俗」とは、「祭りや古くからある土着的な芸能、世代から世代へと語り継がれてきた伝承、親族のあり方や決まりごとなど、民間の古い生活様式に関わる事柄」です。
なぜこんなことを書いたかというと、言葉は、その土地の文化を表すということを言いたかったから。
言葉がある。ということは、その言葉より以前に、結果としてその言葉が表す行為がすでに存在していたということである。
つまり、差別的な言葉があれば、それよりも前に、差別は実際に存在していたし、「戦争」という言葉があれば、その言葉よりも前に、戦争を表すような行為が存在していたということだ。
「行為」があるから、「言葉」が生まれ、また、その言葉によって行為が強調されたりもする。
「ルッキズム」という言葉が世の中を駆け巡り始めたのは、近頃。ということは、ようやく、見た目で差別されていたのは、間違いだったということが明らかになるということだ。というか、そうであってほしい。
いや、むしろ、流行らないでほしいのか。もし、「ルッキズム」が本当に流行るのならば、それは、社会全体が、「ルッキズム」で蔓延していたことが逆説的に表れることになるのか。
まぁ、日本人の差別意識の根底にある文化的な背景は、内か外かの違いだろうけれど、いずれにしろ、見た目に左右されるような世の中であってはいけない。というか、そんな社会は面倒だ。
とはいえ、「見た目」を整えるためのビジネスは、これだから、いつの時代も廃れることはない。どんなことがあろうと、この「見た目」が大きな影響を与えることもある。というのが人の思想の根底にあって、かつ、口には出さなくとも、「見た目」が良い人の発言は、良く聞こえるものなのだから、結果的に、「見た目」を追求することに終わりはない。これもまた現実なのだろう。
つまるところ、ある「言葉」が存在するということは、その「言葉」が表す意図というのは、実のところ、その「言葉」が表す意味の行為を行っていましたということだろう。
今後、声高に、「ルッキズム」は良くない!とか、言い始めるような人がいるなら、その人は、これまでの人生で「ルッキズム」を行っていたということの表れになるのかもしれない。それはそれで、皮肉かもしれないし、面白いかもしれない。味わい深いかもしれない。
幸福ってなんだろうね。
そんな「ルッキズム」について考えた挙げ句、行き着いた動画がこれ。
まぁ、どちらも面白かったのだけれども、この日本の動画を並べると、なかなか面白い感じがする。
日本で生活していると、「老い」は良くないもので、不幸の象徴みたいな感じがあって、かつ、毎年、世界幸福度ランキングを見て、「日本終わった〜」みたくなるのが一連のエンタメみたくなっている。
かくいう、自分も、「日本終わった〜」といっているかというと、もっと酷くて自己嫌悪に陥るから、所詮、自分なんて「動く生ゴミ」くらいの感性だったり、そのくらいの感覚で日々生きてるところがある。日本どころか、自分なんて、もう終わった人生を過ごしているのだから、もう打ち切って来世にポイント還元してください。くらいの感覚。
まぁ、酷いもんだけれど、これらの動画を見ると、そんな眠たくなるようなことを考えてるくらいなら、もう少し利己的に生きれば良いんじゃない?みたく言われているような感じがする。
日本人はそもそも、利他的な性格をしていて、周りとちゃんと共存するということがプログラミングされている。と。
だから、周りを気にするし、見た目を気にするし、結局、自分の意志ではなく、周りからどう思われるかで判断する。それが表れているのが、コロナ後でも、みんなマスクをしているという現状。ようやく、マスクをしない人も出てきたように思えるけれど、それでも、まだ、マスクは目立つ。
とはいえ、そんな利他的な国民性だからこそ、「サービス残業」なんていう言葉も出てくる始末。利他的な国民性と資本主義はどうやら相性が悪いらしい。ここらで、江戸時代の商いに戻りませんかね?江戸時代はSDGs的でもあるし…。
まぁ、なにより、自己肯定感を上げるための環境を選ぶことも大事なのかもしれない。「〇〇終わった〜」って言っているうちは、結局不幸なまま。
(「終わった〜」とか言ってないとやってらんない格差社会はどうにかならないものか。こんなことを考えると、結局循環して戻ってくるから、やめておこう。)
そもそも、幸福も不幸も考える必要のない時間軸に生きることができれば良いのだろう。まぁ、自分の好きなことをして、それなりに生きることができれば、幸せなのでは?と。
ある程度、お金も必要だし、人間関係も必要だろう。自分が居たいと思える環境に身を置くことも大事だろうし、そのために切らないといけない部分もあるだろう。とはいえ、結局は誰かのためではない、自分のために。
自分を優先した結果、他の誰かも助けることができたのならその形が一番良いかもしれない。利他的であることも時に大事だろうけれど、あくまで、利己的に、自分を満たした上で、余剰分を分けてあげるくらいの感性を持ちたいものだ。常に利他的なのは、疲れる。
まぁ、「ルッキズム」に惑わされること無く、ちょっとは自分勝手に生きても良いんじゃない?って感じかな。
「考える」=脳のキャパを表すのでは?と実感する日々
別に、自分の脳のキャパは大きくないと思うし、大したことは無いと思っているけれど、(実際、上には上がいて、見上げればきりがないからね。)
人の話を聞いて理解するという行為自体、脳のキャパシティを使うものだとは思う。CPUが必須だし、GPUも必要になるだろう。
その考える処理速度というものを、AIを活用してから考えるようになった。
AIの処理速度を基準にして人間の処理速度を測ると良くないね。人はそこまで賢くない。
自分の話を理解するまでに、相手はかなり時間をかける必要がある。そんなこともある。仕方ないから、相手の土俵でも話をしてあげる。結果的に、思慮の深さの差というものも露呈するわけだが、理解力とは、人間に与えられたGPUの大きさの問題かもしれないと。
GPUの処理速度が早い脳があれば、遅い脳もある。全ては多様性と。
そんな脳のキャパ、こと、GPUは、やはり、千差万別で、人間一人一人異なる。高性能なものから悪いものまで。悪いからダメというわけでもない。要は使い方である。
人間、適材適所。という理想が叶うと良いのだけれど…
「適材適所」という言葉があるということは、そうではない現実があって理想を思い描いたのか、そもそも、「適材適所」は実現できていたのか。もし、後者であるなら、改めてそんな時代になって欲しいものだ。
[2023 11/6 ~ 11/12:怜丁日記]
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