「諦める」をポジティブな言葉として捉え直す

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一般的には、ネガティブワードとして考えられる「諦める」この言葉を、一転ポジティブな言葉として捉え直してみると、元々の性格がネガティブだからなのか、心が楽になるという話。

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人は、自分の主観にとらわれる。

差別発言を繰り返していた議員とか、自分の主義主張を繰り返すあまり、パワハラを繰り返してしまうようになるとか、自分の正義を押し通すために、歴史すら捻じ曲げながら、自分が正当だと主張したりとか。

そのようなことが、最近では目立ってきたように感じるし、何なら、SNSだったり、ネットニュースが普通になってしまったことで、エコーチェンバーが形成されてしまっていて、その枠から抜け出すことが困難になってしまっている現状を考えると、「自分の主張が正しい」と思い込みやすくなっているとは思う。

あまりいい傾向とは言えないし、なにより、自分の価値観の中で生きることは大事だけれども、その価値観を押し付けたりしてしまってはよろしくない。それに加えて、寛容な心というものを忘れ去ってしまっていくような歳月の過ごし方もあまりよくない。

もはや、価値観がエゴになってしまっている感じ。時代は移ろうし、変化する。常に同じことなんてものは無いし、完璧も存在しない。実際、この「移ろう」という感覚は、平安時代に短歌を詠んでいた人たちのほうが、敏感に感じ取っていたのではないだろうか。今の時代に生きていると、自然の移ろいというものには、目が向かないのではないだろうか。

これもまたエゴなのだろうか。誰かに分かってもらいたい。とか、考え方だったり感じ方が同じような人と接していたい。というのは普通のように思えるけれど、その経験が極端に少ないと、周りと比較してしまいがちになってしまうようにも思える。その点においても、エゴイストはきっと楽な人生を過ごしているのだろう。

周りを気にせず、他人の顔色を伺わず、自分のエゴだけを押し通すような日々。

きっと楽な人生だろうけれど、もう、そんな人生を歩むことはできないだろうし、何より、周りを気にすることは癖になっているし、他人の顔色を伺って言葉を選ぶことは、もはや日常と化している。

エゴを押し通すことを青春と言うならば、そんな押し通せるほどのエゴは持ち合わせなかったし、青春の枠組みに押し流すようなものでもなかった。結局は傍観者なことが普通だった。まぁ、そんなこんなで、今もエゴみたいなものを持ち合わせてはいないし、物欲もあまり無いから、結果的にミニマリストになっているけれども。

「諦める」をポジティブな言葉として捉え直す

元々の性格がネガティブ、つまり、負。「諦める」という言葉もネガティブワード。つまり、負。マイナス掛けるマイナスは、プラス。ということなのか、自分の中では、「諦める」を捉え直すと、心が軽くなったように感じた。

どういうことかというと、人は、自分の価値観や主観に囚われていて、そんな価値観の押し付け合いが日々の生活であるとすると、日常のどこかのタイミングで、自分の価値観を相手に押し付ける、あるいは押し付けられるといったことが起こると思う。

そこで、自分の価値観を相手に押し付けて、相手に勝とうとしたり、優位に立とうとする。そのこと自体をムダだと思うようにする魔法のような言葉が「諦める」になる。

諦めの境地だと思う。

戦わないという選択を取る。つまり、もし戦って勝ったとしても、それは一時的な快楽、つまり、ドーパミン的な快楽になり、長くは続かない。何より、もし負けてしまっては、嫌な気持ちになってしまう。負けて嫌な気持ちになるくらいなら、戦わないほうがマシ。

「諦めの境地」を身に付けていると、何が起こるかと言うと、自分にとっての安置が出来上がる。つまり、安全地帯だ。その安全地帯にいれば、自分を落ち着かせることが出来る。つまり、セロトニン、あるいは、オキシトシン系の快楽が得られるということ。長く続き、メンタルの安定には大事な快楽である。そんな場所を得るためのマジックワードが、「諦める」というわけだ。

実際、ニーチェも以下のように言っている。

「勝つなら圧倒的に勝て」

競争においては、かろうじて相手に勝つというのはあまりよろしくない。勝つのならば、僅差ではなく、圧倒的な差をつけて勝つのがよい。

そうすれば、相手は「もう少しだったのに」という悔しい思いも自責の念を持つこともない。それどころか、かえって清々しい気持ちで素直に相手の勝利を讃えることができる。

相手をはずかしめるようなきわどい勝利や、微妙な勝ち方、遺恨を生むような勝ち方は良くない。それが勝利者のマナーというものだ。

『超訳ニーチェの言葉』より抜粋

つまるところ、圧倒的に勝てない勝負はしない。ほかはすべて「諦める」というわけだ。圧勝して、清々しい気持ちになったうえで、そこが安息の場所なのだから、オキシトシンがでるのなら、それが一番ベスト。

そもそも、圧倒的な勝利自体、退屈なものになる場合もあるので、勝負すらしなくなるとは思うが。

とはいえ、相手の土俵で戦うことをしないで、自分の心を守るための手段としての言葉が「諦める」というのも、なんとも言えない感じはあるけれど、心を守ることが最優先。これ以上、心を傷つけてしまってはいけない。

正当化と改善を混同してはいけないけど…

自分のエゴを正当化して押し付けることと、その場の現状を改善するためにしたほうが良い提案の押しつけは、似て非なるものなのだけれども、どうやら、一般的には、これらは混同されがちなもよう。

改善案を提示していても、相手からしたら、エゴの押し付けに聞こえているのだろうし、その逆もまた然り。

困るのは、自分は改善案のつもりで伝えていても、エゴと捉えられて、相手からはエゴを押し付けられるパターン。思考の浅さが見え隠れするエゴ程、鬱陶しいものはない。

ということで、「諦める」わけです。

別に相手の案に乗るわけでも無い。「諦める」

諦めて、とりあえずふりをする。見せかけの嘘で自分を着飾る。

嘘は自分の身を守るための道具とは、本当によく言ったもので、『押しの子』もなかなか良くできてる。

結局、戦う相手は自分でいいし、過去の自分に圧勝出来るように、自分の高みを更新し続ければいいだけの話。自分の好きも嫌いも、何もかも。押し付ける必要はないし、するつもりもない。自分で好きでいる分には、誰も傷つけてないし、自分の好きを守りたい。それくらいのエゴは、持ち合わせることを許してほしい。

結局のところ、自分を守るための言葉として、どのような言葉が一番適しているのだろうか。ということを探すことが大事なのだろう。そういった語彙が貧弱だと、安易な行動に走ってしまう。ニュースを騒がせているオーバードーズなんていうのも、自分の現状を上手く吐き出せないからこそ、起こる現象なのかもしれない。環境に心を壊されてしまったのか、何が原因かは人それぞれで、分からない。それを、周りが、誰かに頼ったりすれば良いのに。なんていうコメントを言うのは、安全圏からの物言い。全く分かってない。

人の悩みは大小あれど、当人に取ってみれば一大事で、場合によっては、この世から消え去ってしまいたくなるくらいの悩みだったりする。上手く言葉を選んで、吐き出せるのならば、何十年と経った後になって、振り返って、「あの頃は…」なんて言えるかもしれないけれど、まぁ、これも難しい。

「諦めの境地」

戦うことをしない。資本主義なんて、何と戦っているのやら。

もうそろそろ、戦うことを諦めることを覚えればいいのにと思う。

セールで売り出されている靴の量を見て、世界のどこかには、こういった靴を履けない人もいるのに…なんて思うと、資本主義という名のエゴの押し付けあいも、ほとほと、呆れてくる。

寛容な心を持ち合わせながら、日々を生きる中で、「諦める」という言葉は、自分にとっては、心を守るための最強の言葉になりそうだったから、そんな話でした。

さて、どれくらい、この魔法の言葉「諦める」は、自分を助けてくれるのだろうか。

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[2023 11/20 ~ 11/26: 怜丁日記]

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