2023年の流行語大賞に、「生成AI」が入ったこともあり、今年は、流行りに乗っていたのだなぁ。と思うのだけれど、AIに対する意見の一つに、「AIによって仕事が奪われる」というものもある。そんな意見について、色々思うところがあるので、そんな話。
飛躍しているから、よく考える
「AIによって仕事が奪われる」という意見は、論理としては飛躍しているので、よく突き詰めて考えないといけない。
そもそも、「AIによって、仕事が奪われる」という意見は、「AIが活用されるようになる」→「AIによって代替される部分がある」→「元々は人が行っていたものをする必要がなくなる」=AIに奪われるという構図。
そして、世の中には、ブルシットジョブこと無駄な仕事がありふれている。無駄を生み出すことで資本主義を成り立たせている側面もあるのだろう。とはいえ、そんな無駄な部分を効率化するツールとしてAIが出てきたことで、無駄な仕事、あるいは、最低限の能力から平均値くらいまでの能力をカバーできるくらいのインパクトがあるのも事実。
とはいえ、「人の仕事が奪われる」というのも、ちょっと違う。正確に表現するなら、人がやっていた仕事がAIに置き換わって、人は、もっと別なことをすることができるだろう。という表現になる。
例えるなら、お掃除ロボットのルンバ。
あのお掃除ロボットが出てきたタイミングで、果たして、人は、掃除から開放されたのだろうか?これも、正確に表現するなら、掃除という手間をある程度削減しつつ、ゴミ捨てだけを人が負担する。掃除という手間を削減するためのツールとして、ルンバがある。決して、掃除という行動そのものが無くなった訳では無い。
コレと同じで、AIが出てきたとはいえ、仕事そのものが無くなるという訳ではなく、従来の仕事の手間を極限まで減らせるから、効率が良くなり、あるいは、AIによって代替された結果、別の仕事が出てくるというのが、このルンバの件からも分かる。
歴史を振り返れば「ラッダイト運動」というものがあり、新しいテクノロジーは、民衆に受け入れがたいものもあったというのは、事実だろう。実際、通信規格の5Gが導入されようとしていたタイミングでコロナが流行し、「5Gのせいでコロナが流行したのだ!」みたいな意味の分からない”こじつけ”もあり、結果、5Gの基地局が破壊されるみたいな、過去のラッダイト運動と同じことが起こっている。
AIも同じようなことになるのだろうか?とか思うけれど、破壊する対象がそもそもデジタルなものだから、そこまででは無いだろうけれど、ただ、「AIを使わない!」と言い張る、あるいは、頑なな姿勢を崩さない人は一定数出てくるのだろう。
このあたりの話は、書籍『Chat GPTは神か悪魔か』でも取り上げられている。
新しい仕事は生まれるだろう。とはいえ、無駄な仕事が世の中にはありふれているのだから、それらはAIに任せてしまえばいいのだ。などなど、様々な方の意見があって面白い。
新しい仕事には就けるのだろうか?
この点に関しても、問題ないのだろう。
過去、「電話交換手」なる仕事があったようだけれど、そんなものは無くなって、今では、オペレーターがかなりの人数いる。さて、このオペレーター、AIが活用されれば置き換わる可能性があるらしい。
まぁ、きっと、別の新しい仕事は出てくるだろう。それも、AIを活用して何か作業するようなものが。
そうやって、人は適応するはずなのだ。
一つ、懸念事項を挙げるとするならば、AIによって、平均値付近、あるいは、中央値付近の能力にいるくらいの人が行っている仕事は、AIが代替することで価値が無くなってしまい、それらの人々は、別の仕事を探す必要があるかもしれないということだ。AIを受け入れて、新たな仕事をするのもいいだろう。という訳だが、正直、そこまで簡単な話でも無いような感じがする。
日本では、中小企業が大多数を占めており、それらの企業に限った話でもないし、大企業でもそうだろうけれど、会社に属している人たちの能力も様々であろう。正規分布曲線をキレイに描くはず。その中央値あるいは、平均値くらいまでの仕事はAIで代替できるとするならば、例えば、いくら能力が高くても、平均値程度の人材しかいない企業では、そもそも、AI一つで、すべて置き換わる可能性すらある。
そうやって考えてみると、右肩上がりで成長しないといけない、直線的な時間軸に存在するような資本主義的な考え方だったり、価値観というものすら、アップデートしないといけない部分はあるのかもしれない。
いっそのこと、循環的な時間軸に存在する仕事、あるいは、生きるために必須の仕事である、食べ物を生産する、いわゆる農業が一番価値があるのではないだろうか?とまで思ってしまう。それ以外は、全てAIで代替できてしまうのだから。こと食料自給率が低すぎる国日本においては、無駄な仕事を全部AIにまかせてしまって、浮いた人の力を使って、農業をしたほうが良いかもしれない。農業している人にちゃんと給付という形で、国が何らかの支援をすれば、食料自給率にも良い変化があるはずだ。
AIが一般的で、インターネットを使うのと同じように、世の中に浸透するまでどれくらいかかるのだろう?コレに関しては、もう少し時間はかかるかもしれない。人の検索力より、AI、とりわけ、bingの検索能力は圧倒的だから、「ググる」という時代も、ちょっとずつ置き換わりそうな予感はある。「ビングる?」語呂が悪いけれど、それほどまでに、圧倒的な検索力はある。下手な教師に聞くよりコスパもタイパも良い。
無駄な仕事はどこまで無くなるか
コロナ禍で、オンラインというものも一般的になるのかと思いきや、結局、通勤が…とか言ってるあたり、ホント、無駄が好きなんだなぁ。って思う。そもそも、勤務地に縛られる必要も無いし、転勤とかいう、会社都合で人生を振り回される感じも、正直、あり得ない。仕事をする場所くらい、自由で良いだろうし、全てオンラインで完結できるならば、そのほうが、環境負荷がかからなくて良い。
それなのに、「出勤する」という儀式を行い、「会議」という無駄な儀式を済ませ、あるいは、「朝礼」という無益な儀式を執り行い、結局、生産性が低いまま、一日を過ごし、適度にサボりながら仕事をしたほうが正義みたいな感じで社会が回っているのも、本当に、意味がわからない。
日本には、宗教がないとか言い張る人もいるけれど、日本国内の「仕事」は、もはや宗教に近い部分があると思う。いや、宗教というか、カルトに近くなるかもしれない。生産性もなく、足を引っ張り合うだけで。
そう考えると、パレートの法則(20:80の法則)がやっぱり適応されているような気がして、マクロでみたら、日本の経済なんて、企業の上位20%がほとんどすべての価値を生み出しているのでは無いだろうか?とか、もう少しミクロでみたら、能力が高い上位20%の人が、全ての仕事を請け負っていて、後は適当でもなんとか成り立っているのかもしれない。
自分の感覚では、そんな儀式的なことが多い仕事はすべてブルシットで、代替がそれにあたる感じがする。ついでに、自分の価値観的に、大して、多くのことに興味が無い。っていうこともあるかもしれない。
とはいえ、「人としてどう生きるべきなのか」という問いは、立てておくべきだし、自分なりの答えを持っておく必要はある。無駄に身を投じるもの一興。無駄なことはしないと思うのも一興。
最近買った本の中に、『思考の穴』というものがある。
その中で「サティスファイサー」という造語が紹介されていた。「サティスファイ(満足)」と「サフィス(十分)」を組み合わせた造語だ。
自分が十分満足できるもので、満足してしまったほうが、満足度が高いというもの。
ある意味、諦めの境地だし、悟りと言い換えても良いかもしれない。あるいは、「高望みしない」という表現かもしれない。自分が満足できるだけのもので満たされる環境を探せれば、あるいは、作れれば、それで良いという境地。老荘思想?無為自然?コレばかりは、人によるかもしれないけれど、色即是空であり、空即是色なのだろう。
話は変わるけれど、日本には、2種類の人間がいるらしい。一つは、「グライダー型」の人間。もう一つは、「飛行機型」の人間。グライダー型の人間は、誰かに引っ張って貰わないと進めない人。自分の意志がない人。自ら考えることをしない人。飛行機型の人間は、自分のエンジンでもって進む人。日本の教育においては、グライダー型の人間を量産する教育制度で、そんな教育の行き着く先は、企業という空想あるいは、集合体に引っ張ってもらうだけの人生。それを量産する教育はどうなんだ?とは思うけれど、ただ、グライダー型を量産する教育制度の下では、飛行機型の人間は生きづらい。
グライダー型であれば、企業に入って、そのまま引っ張ってもらって終わり。なのかもしれない。けれど、飛行機型で、自ら考え、思考し、進んでいこうと思う人にとっては、結構息苦しさを感じるだろう。
さて、どちらのタイプだろうと構わないけれど、グライダー型の人にとっては、AI化は、喜ばしいことのはず。引っ張ってもらう相手が、AIという素晴らしいツールなのだから。
飛行機型であるならば、AIを活かして、何ができるだろうか?ということを考えるはず。それはそれで難しいだろうし、もはやレッドオーシャン感が凄まじいけれど、AIの周辺のどこかには、ボトルネックが存在するはず。ゴールドラッシュの時のリーバイスと同じ。
「AIによって仕事は奪われる」という意見に対しては、結論、そんなことは無い。となる。
そんなことは無いけれど、価値があると思っていて日々仕事をしていることに対して、実はあまり価値はありませんでしたと、生成AIに置き換わるレベルでしたよ。と打ちのめされる日はそう遠くなくて、価値が無いと分かった時に、じゃあ、人はどう生きるべきなのかということを考えないといけない。
すべてのことには価値がある。と同時に、すべてのものには価値がない。
本質は、生きるということ。そのために、何をしたいのか、あるいは、したくないのか。その価値観の基準を、しっかりと定める必要がある。
まぁ、今年に限っては、自分も生成AIに触れて、まさか流行語大賞になるとは思わなかったけれど、生き方を考える時間も増えたように思える。AIを活用して何ができるだろうか?あるいは、自分は何がしたいのだろうか?もしくは、何をしたくないのだろうか?など。
ココナラとか、クラウドワークス系の副業は、もうすべてAIで代替ができそう。個人が何かを生み出すということも考えないといけないだろうし、それなりに身に付けないといけない新しいスキルもあるだろう。
落合陽一さん辺りは、デジタルネイチャーの世界観を生きていて、その軸がしっかり定まっているのだろうけれど、自分はそこまでではなくて、まだ、本来の自然の中に美しさだったり、価値を見出そうとしているかもしれない。計算機によって生み出される自然、あるいは生成物ではなく、純粋に、天気の奴隷として成り立っている、旧時代の自然である農業的な自然。そのくらい、循環的な時間の中で、目に見える自然の変化を感じ取るくらいの感性でちょうどいいかもしれない。とも。
とはいえ、日本のどこにいても、インターネットは繋がっていて、デジタルに包含されているから、結局デジタルネイチャーの世界の中にある、従来の自然寄りの空間が好きってだけかもしれない。
意外と、自分が生きる上で必要だなぁって思うものが少なくて、改めて生き方を考えていると、結局迷走してしまって、もう、暗中模索状態。一旦考えないで、その日暮らしくらいの世界観に没入したほうが幸せなのかもしれない。
[2023 11/27 ~ 12/3:怜丁日記]
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