日々改善しているからこそ、今には今の良さがある

日記

日々改善しようとしていればこそ、「前のほうが良かったなぁ」とか、「もっとこうしたいなぁ」とかいった欲が出てくる。欲の大きさと同じくらい、今の良さを認めてあげることも大事だろうなぁ。というそんな話。

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ツァラトゥストラはかく語りき

『ツァラトゥストラかく語りき』を読みたいと思って、しばらく経って、ちょっとだけ読むタイミングができたので、読んでみたら、冒頭、ツァラトゥストラは三十路で山に入ったという文章から始まっていて、まさに、ツァラトゥストラと同じように、山に入ろうかと悩んでいる自分と重なってしまった。

孤独になるかもしれない。けれど、周りに邪魔をされず、精神の豊かさを得ることができるかもしれないと。

デジタル化が進んだ現代において、インターネットが繋がっていれば、分断と呼べるものは、かなり少なくなるのではないだろうか。

久しぶりに掃除をしながらそんなことを思いつつ、『働き方5.0』が目に入る。

年の瀬になり、師走も半ばが過ぎようとしている今、今年の出来事を振り返りながら、AIによるデジタル化、こと、デジタルネイチャーは進んだのだろう。と思う。

AIというシステムに使われる人は増えるのだろうか。AIというシステムを活用する人は、あとどれくらいでマジョリティになるのだろうか。あたり前にAIを使いながら生活をするまで、あとどれくらいだろうか。

そんなことを考えながら思う。『働き方5.0』にもある通り、自らのモチベーションの源泉と生き方、あるいは、ツァラトゥストラのような精神の豊かさとともにある生活、デジタルネイチャー時代においては、目に見える物質だけを考えると、分断というものもかなり目立つように思えるけれど、インターネットという仮想世界を経由することで、分断はかなりシームレスになるようにも思える。

人の移動がかなりバカバカしい。ということは、去年くらいの落合陽一さんの動画でも見ていたように思う。落合陽一さんは、ナム・ジュン・パイクの発言を引用して「人(65kgくらい)が移動するために、例えば、車だと、2tの鉄の塊を動かす必要がある。コレはかなり非効率的である。」ということを言っていた。

確かにそうで、自分自身の精神の豊かさを考えよう。あるいは、どういったところで生活をしたら一番心地が良いのかということを考えた時に、「移動」という優先度はそこまで高くない。

「移動」することで確かに、面白いことにも出会うし、今までとは違う現実がたち表れることもある。とはいえ、じゃあ、その「移動」で、自分の人生が豊かになるのかというと、実際、そこまでではないかもしれないし、何より、他者が関わった時に、自分が関わりたいと思った人は、自分と関わりたくないと思っているかもしれない。なんていうことを改めて考える必要に迫られて、意外と大変だったりする。

人間関係が一番大変。コレは真理かもしれない。

とにかく、自分の生活において、買い物のための移動とか、流行を追うための移動、あるいは買い物といったものは、正直、そこまで重要じゃない。自分の時間が一番大切で、ほかは二の次。そんな感じなのかもしれないなぁ。としみじみ思う。

そんな自分の時間が、life as work となるならば、一番面白いのだろうけれど、その手がかりがどうにも見当たらない。

移住・NFTゲーム・投資・副業・趣味etc.

どれがどのように関わり合うのか分からないけれど、自分の生活を成り立たせるための軸と、仕事としての軸。または、趣味を含めた自分のための時間という軸。これらの軸が重なり合うような場所を作れるのならば、面白そうだとは思っているけれど、なかなか実行に移すことも大変だ。気力がいる。

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使われるという立場は、使う側を評価する

そもそも、使われるという立場自体、良くない。

けれども、世の中の世間一般的には、「使われる」ことで生活に必要な資金を得ている部分もある。流石に、資本主義的な世の中だなぁということを実感せざるを得ないが、この「使われる」という立場は、人を堕落させてしまう。

何より、自ら何かを変えようとする意志を挫くような状況が「使われる」ということだと思う。だからこそ、ナチス・ドイツ下におけるアイヒマンだったり、ミルグラム実験で分かるような、権力に盲従するような状況が生まれてしまう。

現在においては、資本主義的な会社内の上下関係は、意味のない行動を生み出し続けていると思う。コレまた落合陽一さんだけれど、会議のことを「儀式」と形容していた。確かに。と思ったけれど、冷静に考えれば、自分は、会社に属することは、カルト集団に属することと同義だなぁ。とか思っていたから、対して差はないのかもしれない。

集団は変わらない。使う側も変わらない。

「使われる」という立場である以上、何かを変えたいならば、自分が変わるしかない。

生活というものを、プログラミングのシステムの一部と捉えた時に、「動かされている状態」が多いなら、自分が「動く」ことで、何かを変える必要があるだろう。

決して、他者よりも「良い生活」という考えではなく、自分自身の生活の質を高めるための「行動」は必要だろう。という話。

他者と比較して、下を見て安心して…みたいなラットレースの渦中にいる限り、おそらく精神の豊かさを得ることはできない。

それこそ、自分自身の価値観というものが問われてくる。だからこその「サティスファイス」満足できる落とし所を理解することが大事なのだけれど、人の意識は一年やそこらでは変わってない模様。

「生成AI」が流行語にノミネートされてはいるものの、結局のところ、どう使えば良いのか分かっていないが故か、ブームが下火になっている気もする。

Chat GPTを始めとする、生成AIによって、創作することができる、想像力を活用すれば、多くのことに利用できる。というだけなのに、その想像力や、考える力が、恐ろしく低下していることを実感する。

おそらく、皆「動かされている」がゆえ、自分で「動く」ということをしようとした時に、どう動けば良いのか分からない状態になったのだろう。だから結局、システムに動かされるような状態に戻ってしまう。

自ら考え、動く。

すべての基本原則だったはずなのに、「教育」されることで、失ってしまう能力かもしれない。

教育によって得られる能力は、AIの二番煎じ以下、(あるいは、劣化AIみたいな未完成品、感情がある分、AIより、使い勝手は悪いかもしれない。)という状況において、人間としての最大限の能力は、「思考力」と「行動力」、または、あるものを活用して、「生み出す」ということ、またそのモチベーションを持ち続けるということのはず。

「使う側」を評価してしまうような状況には、そもそも身を置かないほうがいいかもしれない。評価をせざるを得ない他者の欠点が見えてしまっているから。あるいは、問題がありつつ、それを改善しきれていないから。

全部を改善しようと行動すると、自分が傷つくから。

そんな修羅の道に身を置くくらいなら、まずは、自分の生活における優先度を再確認したほうが良い。

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判断を鈍らせているものは何か。

個人的な長所であり、欠点でもあるところ。

「計画を練りすぎる」

事前にある程度見通せないと安心できない。この見通す広さが、広大すぎる分、行動に移せなくなっている部分はあるかもしれない。広い大地の東を見て、多少の欠点があったとして、西を見て更に欠点が目に付き…なんてことを繰り返しているから、その場から動けなくなっている感じ。

まずは、行動してみることが大事なのだろう。

経験した後に、考えれば良い。

ニーチェもそう言っていた。そんなニーチェの言葉を反芻しながら、『思考の穴』を読み進めようと思う。

まぁ、どうせ間違うんだよ。きっと。選択を。

けれど、行動した後で、計画し直して、それでも生きていくのだろう。きっと。

はぁ。生きるって大変。特に、この日本っていう世の中は、完璧主義者を求めているから、失敗者や落伍者には、辛い世の中である。

冷静に考えて、失敗者のほうが頑張ってるだろ。高望みして、無理して、努力してるだろ。失敗者のほうが。結果的に、中途半端な安牌しか選ばなかった人より、能力高いだろ?そっちのほうが。

中途半端な安牌を選んできて、挑戦を忘れると、変なプライドだけが身につく。マジでいらない。

そんな失敗に厳しい国、日本に生まれて良いことはあるのだろうか?まぁ、自分勝手に生きれるくらいか。

正直(今は)未来は無いと思ってるし、自分自身、終わった人生で、まだまだ相対的に道は長いけれど、もう、余生だと思ってる。これから得られることも、きっと少ないし、もう、どうでもいい。っていう動機で、投げやりになって、行動して初めて何かが動くかもしれない。

地獄に身を投じた期間が長いと、心は荒む。自分を徹底的に痛めつけることに慣れきってしまう。

だからこそ、余生として、精神の豊かさを求めているのかもしれない。

あれだ。疲れてるんだね。きっと。闇が吹き出して来そうだ。寒いことも良くない。冬眠したい。

とりあえず、体調を崩さないように気をつけよう。

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[2023 12/11 ~ 12/17:怜丁日記]

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