この週は、メンタルがやられて、回復して…
自分にとっては、目まぐるしく、大変な日々だったのだけれども、
回復のきっかけをもらった時に、サルトルの言葉を思い出したので、
最近のマイブームでもある、「Chat GPT」を使って遊びながら、
サルトルの言葉を心に留めておきたいと思って書く日記。
サルトルって何者?
サルトルについて教えて下さい。
ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)は、20世紀フランスの哲学者・作家で、実存主義の代表的な思想家の一人として知られています。彼は人間存在の本質についての問題を探求し、自由意志や人間の存在について独自の見解を持ちました。
サルトルの代表作には、小説『嘔吐』や哲学書『存在と無』があります。彼は、「存在は本質に先立つ」という実存主義の基本的な考え方を提唱し、人間は自己の自由な選択によって自己の本質を形作っていくと主張しました。
また、彼は「他者の目」という考え方を重視しました。つまり、人間は自分自身を客観的に見ることができないため、他者が自分を見る目が存在し、それによって自分の存在や行動を理解することができると考えました。
サルトルはまた、政治思想家としても知られており、フランスの学生運動や反戦運動などの社会運動にも積極的に関与しました。彼は自己決定という価値観を重視し、人間の自由意志によって自己の人生を決めることが重要であると主張しました。
サルトルは、哲学的・文学的・政治的な多くの分野で影響力を持ち、20世紀のフランス哲学・思想界に大きな影響を与えました。彼の実存主義的な思想は、自由意志や自己決定といった問題に取り組む多くの哲学者や思想家に影響を与え続けています。
そう。この「他者の目」における問題。
これについては、よく考えてみたい。
とりあえず、1個ずつ記憶を辿って、
知っていることと、知らないことを整理しよう。
実存主義って?
サルトルが提唱する「存在は本質に先立つ」という考え方とはどういうものですか。
サルトルは、哲学的存在主義の立場から「存在は本質に先立つ」という考え方を提唱しました。これは、個人の存在がその人の本質や意味を決定するという考え方です。
具体的には、サルトルは「自由意志」という概念を重視し、人間が生まれながらにして何かしらの本質や意味を持っているわけではなく、自らの行動によって自己を創造すると主張しました。そのため、人間は自己を創造する自由を持ち、自分自身が決めた道を歩むことで、自己を実現することができると考えました。
この考え方は、個人の自己実現や自己責任の重要性を強調するものであり、サルトルの思想の中心的なテーマの一つです。また、この考え方は後のポストモダニズム思想や現代の自己啓発書などにも影響を与えています。
先週の、ニーチェと似てるよね。
何か関連しているのだろうか?
ニーチェとサルトルの共通点とは?
ニーチェの思想と、サルトルの思想に共通点はありますか?
ニーチェとサルトルは、ともに哲学的存在主義の立場から人間の存在や自己実現について考察していますが、両者の思想にはいくつかの共通点があります。
まず、両者ともに「自己責任」という概念を重視しています。ニーチェは、自己責任を持って生きることが個人の成長や自己実現につながると主張し、サルトルもまた、自己の選択や行動によって自己を創造する自由があるという考え方から、自己責任の重要性を強調しています。
また、ニーチェとサルトルはともに、「主体性」という概念を重視しています。ニーチェは、個人が自己の価値や意味を自ら創造することができると主張し、「自己超越」の概念を提唱しています。一方、サルトルは、自己の価値や意味は自己が主体的に選択することで決定されると考え、個人の主体性を強調しています。
また、両者ともに、「真理の相対性」という概念について言及しています。ニーチェは、「真理」は個人や社会によって相対的に変化すると主張し、「プラトン的な真理観」に批判的でした。一方、サルトルもまた、「真理」が客観的に存在するという考えに対して批判的であり、真理は個人の主観によって相対的に変化すると主張しています。
以上のように、ニーチェとサルトルには、自己責任や主体性、真理の相対性といった共通点がありますが、両者の思想には多くの違いも存在しています。
別の思想家の、同じ側面を見ていたっていう訳ね。
もちろん、違いはある。そう。みんな違う。それで良い。
人間関係って、共感出来る部分、
他者との共通部分がどれくらい大きいのか。
っていう感じがする。
サルトルを思い出したきっかけ。
自分のメンタルが、闇から復活するきっかけが、
ちょうど、サルトルを思い出すことにも繋がったのだけれど、
まずは、サルトルによる、「他者の目」について思ったこと。
サルトルによる「他者の目」に関して、自分の存在を理解するために他者が自分を見る目が存在するというけれど、「自分が他者にどう見られたいのか」という考えと、「他者と比べて自分はどのような状態なのか」という考えがあるように思える。このことについて、サルトルの意見を踏まえて、どう考えるか?
サルトルによれば、「他者の目」とは、他者によって自分自身が認識されることによって生まれるものであり、自己の認識に必要なものであるとされます。しかし、一方で「他者の目」によって自己が形成されることに対して、サルトルは批判的な立場をとっています。
自分が他者にどう見られたいのかという考え方は、サルトルにとっては他者によって自己が形成されることを意味しています。それに対して、サルトルは自己が他者によって形成されることに反発し、自己決定の重要性を強調しています。自己決定の重要性とは、他者に左右されることなく、自分自身が自己を選択することによって自己を形成することを指しています。
一方で、「他者と比べて自分はどのような状態なのか」という考え方は、自己が他者と対比することによって自己を認識するという意味で、サルトルの考え方とも共通しています。しかし、サルトルは自己を認識する上での基本的な要素は自己決定にあるとし、他者によって自己が形成されることに反対していることに留意する必要があります。
こうやって見てみると、
意外とサルトルって、誰かに認めてもらいたかったのでは?
なんていう風に思う。エヴァでいうと、アスカって感じがする。
で、「他者にこんな風に見られたい」という考えも、
「他者と比べて自分は…」という考えも、
いずれにしても、考えの中心が「他者」になっているわけで、
それこそが、自己嫌悪の原因。
自己嫌悪のループから抜け出した一言。
「他人と比べて自己嫌悪に陥っているのは、正直心配ない。
常に自分が敵状態だよ。」
メンタルが闇落ちしていた時に、これを言われて考えたことが、
「敵→antagonist(敵対者)→サルトルがなんか言ってた。」
っていう流れ。
何だったかと言うと、
「他者こそが私たち自身の意識の根源的な敵である」
という言葉。
人間が自己の存在を確立するためには、
他者との関係性が必要不可欠であり、
同時にその関係性は常に敵対的であると考えた結果として
生まれた言葉。だそう。
自分の中では、ネガティブな自分は、もはや他者に感じてしまう。
ネガティブだと、自分の問題点やら、欠点やらを異常なまでに探すし、
結果として、他者、それも、自分よりも遥かに凄いと思える人と
自分を比べて、欠点を探す始末。
周りの人が、「〇〇と比べてお前はさ〜」
って言う分には、「で?何?」「自分は自分だから。」
とか思えるくせに、その「〇〇と比べてお前は…」
という言葉が、自分の内から湧いて出てくると、
途端に、メンタルがズタボロになるっていう…
こう考えると、
「ネガティブな状態の自分は敵」
と思える。
サルトルの考えを踏まえると、
ネガティブは、時として必要。欠点に気づくきっかけになるから。
でも、同時に、ネガティブは敵。それは自分じゃないから。
そんなことを考えてたら、
ちょっとずつメンタルが立ち直っていたっていうね。
自分の言葉より、他者の言葉が響くこともある。
そんなことを実感した。
ちなみに、サルトルの
「他者こそが私たち自身の意識の根源的な敵である」
という言葉は、『存在と無』にて書かれている言葉だそう。
まとめ:他人に言われて救われることもある。
本当は、自分で自分を救う必要があるとは思っている。
けれど、どうしようも無いときもあると気づいた。
どうしようも無い時に、自分ひとりでなんとか出来るように
対応策を身に付けておくことも大切だけれども、
いざとなったら、頼れる人がいることも大事だと思った。
そんな、自分にとって頼れる人は、きっと、自分をよく見てくれていて、
自分に必要な言葉を掛けてくれる人。
そこに頼っては情けない。とも思うのだけれど、
そんな人が居てくれたことには、感謝しかない。
他者への「信頼」というのは、
時間も、空間も、感情も、何もかも超越しているように思う。
「信頼出来る」というのは、「感情」という次元より
もっと高次元の尊い心の持ちようなのだなぁ。と。
そんなことを思った週だった。
ちなみに、自分が敵。みたいなことを言った人は他にもいて、
マルクス・アウレリウスも、同じようなことを言っている。
「まだ、肉体は負けていないのに、心が負けるとはどういうことか。」
みたいな感じのことを言っていた。
いつの時代も、考えることは大体同じ。
そこには、ある種の人間性みたいなものを感じ取れる。
無理せず、休む。とか、自分に厳しくしすぎない。とか。
結構大事。これからは、「ちゃんと休む」も心がけよう。
コメント