ふと、ニュースに目を向けると、痛ましい事件が多い。
特に、個人が追い詰められてしまった出来事は心が痛む。
喪失感・絶望感・悲愴感など、やるせない気持ちを抱えることはある。
ネガティブの渦中にいる時は、真っ暗な暗闇にいる気持ちになるけれど、
何か新しい出来事を迎え入れることが出来た時、心に光が差し込む気もする。
SNSにより、「ウェルテル効果」は発動しやすくなった。
『若きウェルテルの悩み』という書籍にまつわる話。
この書籍の発売当時、社会問題になった事がある。
そのことを受け、この書籍は、一時発売禁止になってしまった。
その社会問題とは、この書籍の内容を真似した行動を取る若者が増えたこと。
なぜ発売禁止になったのかというと、その行動が、「自死」だったからだ。
このことを受け、心理学用語として、「ウェルテル効果」という言葉が生まれる。
ウェルテル効果とは、マスメディアの報道に影響されて自殺が増える事象を指す。これを実証した社会学者ディヴィッド・フィリップス(David P. Phillips)により命名された。特に若年層が影響を受けやすいとされる。
ウィキペディアより
フィクションが実際の行動を引き起こすかどうかに関しては意見が分かれるところだが、報道の仕方によっては、影響を受けてしまう方もいることは確かである。
SNSの流行によって、報道より早く、一次情報に触れる機会が多くなり、いわゆる「特定班」によって、情報が流布される事が多くなると、不特定多数に情報が行き渡りやすくなる。
報道規制というものもなく、光の速さで、情報は拡散される。
ネガティブな気持ちになることは確かにあるが、影響を受けやすい、言い換えると、自分の世界というものが限られている人に関しては、特に影響を受けやすいように思える。若者に限った話でもない。
ネガティブな思考になっている時には特に、ネガティブな情報に目が向くので、そんな時ほど、情報の取捨選択を心掛けないといけないように思える。
考えすぎてしまうのも困りもの
1つの出来事を深く考えてしまったり、何度もループしてしまったり、他人がどんな感情を抱いているのかを察してしまったり、時として、ルールなり成果にこだわりすぎてしまったり。
最近では、「繊細さん」なんて言葉で片付けられるようになっているけれど、そんな人程、自分でネガティブの沼にハマりに行ってしまうから、かなり気をつけないといけない。思考が加速して止まらない。なんていうこともあるから、自分でブレーキをかける事が出来るようにならないといけないけれど、これもなかなか難しい。
実際、SNS上では匿名性が高く、自己表現することが容易だからこそ、ネガティブな情報を投稿する人も多い。一方で、SNSはネガティブな情報を拡散するだけでなく、ポジティブな情報も拡散する力を持っている。良い情報が拡散されることで、人々の気持ちが前向きになることもある。
また、SNS上では人々が自分自身をアピールするために、自分を良く見せようとする傾向がある。そのため、そういった情報を発信している他人と自分を比較して、自分が劣っていると感じてしまうこともある。しかし、自分自身が満足している生活を送っているのであれば、他人と比較する必要はない。
そう。問題は、「自分自身」が満足できているのかどうか。ということだ。
「考え過ぎてしまう=思考に余裕がある」という状態なわけで、何か新しいことに取り組んでみたりすると、案外、すんなり、気分が良くなったりもする。「繊細さん」のメリットは、ポジティブも感じやすいので、ネガティブから、あるきっかけがあれば、ポジティブにも振れることだろう。
気持ちが行ったり来たりして、忙しいかもしれないけれど。
神は、乗り越えられるネガティブな経験を与える
すべての出来事は、君が生まれつき耐えられるように起こる、…中略…自分の意見一つで、耐えやすく、我慢しやすくできるようなものもあるが、このようなものはすべて君が生まれつき耐えられるはずのものであることを忘れてはならない。
マルクス・アウレリウス”自省録”より
事件だったり、いじめなどといった、他者が直接自分を傷つける出来事に関しては、すぐに逃げる事が大事。ただ、その原因が自分にある。などと、自分で自分を傷つけるようなことをしてはいけない。
出来事自体は、多くの場合、自分を害するものではないはずなのに、気分が落ち込んでしまうのは、出来事に対する共感能力が高すぎたり、自分の場合は…などと、置き換えて考えてしまうからなのだろう。
新年度が始まって、環境が変わったり、新しい生活になっているのに、自分は何も変わっていない…なんて思い悩む人も増えてしまう時期だからこそ、改めて、自分に言い聞かせる意味合いでも、留めておきたい。
「自分が満足することが大事」
先日、落合陽一さんと、養老孟司さんの対談動画にて、
「老い」というものは、他者との比較によるものだ。とか、
自分自身は、「死」を経験出来ず、それは、第三者視点による経験でしかない。とあった。
言われると確かにそうで、「経験」するなら、何かを得るはずだけれど、
「死」の先には何もないので、自分自身はそれを経験することは出来ないと。
経験するなら、何かしらの学びだったり、成長があるわけで。
実際、そういった類のものさしでもって、他者と比べる必要も無いわけで。
「自分が満足する基準を持っておく」
他者と関わる時間と、自分自身が手を動かして何かを作る時間。
そのバランスについても述べていたけれど、
他者が持つ価値観を自分に取り込んだり、自分ひとりで咀嚼してみたり。
そんなバランスを取りながら、満足する基準だったり、価値観を形成するのが良いのだろう。
自分はどうありたいのか。
自分が楽しいと思えることは何か。
自分が取り組みたいことは何か。
何を新しく始めてみたいのか。
そんなことを改めて考える4月の中旬。
花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
小野小町
去年の4月にも、同じ短歌を書いたと思う。
小野小町は、自分の老いを花と比べて感じていたようだけれども、
現代人は、他人との比較で老いを感じる。
若い才能には目が眩む。
ながめせしまに、世には若き才能あふれども、
わが幸せは、移ろうことなし。
今の自分をどれだけ愛せるのだろうか。
今の自分を、どれだけ認めてあげる事が出来るのだろうか。
そんなことを考えている今日このごろ。
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