シェイクスピアの人生観を考える

日記

シェイクスピアは、人生というものを、舞台の上の役者と同じように捉えていて、「ある役目を終えたら舞台から去っていくものだ」という考えを持っていた。シェイクスピア自身は、人生という舞台において、劇中劇を作成する役を演じていたのかもしれない。では、今の自分はどんな役を演じているのだろうか?とか考えてみる。

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人生=舞台。役を演じて去っていく

シェイクスピアは劇作家であり、脚本家、まぁ、作家だったわけなので、そのように思っていたのだろう。とはいえ、舞台上で何らかの役を演じて、役目を終えたら去っていくものだという感性を考えるきっかけがあったので、考えを深めていきたい。

シェイクスピア自身は、舞台と呼んだけれど、これは実際は何でもよくて、「得体のしれない大きな何か」「社会」「システム」「資本主義」「集合知」「無意識」などなど、呼び方はなんでも良い。いっそのこと、全部まとめて「ユニバース」でも良い。

そんな自分よりはるか上位のよく分からない無意識、「ユニバース」から何らかの影響を受けて、自分たちは動かされている。まさに、役を演じているのである。演じているとき、何か名称のある役割が与えられて、その役割を忠実にこなし、その役目を終えたら舞台から去る。役割を終えることを、「仕事を終える」と捉えてもいいし、「退職」と捉えても良い。文字通り、「人生の終幕」と捉えたって良い。

人は、自分で全てを決定しているように思っているけれども、何らかの影響を受けずにはいられない。どんなにスゴいと思われる人でも、何かしらの影響を受けている。それが大きい何かなのか、身近にある何かなのかは人それぞれだけれど、その大きさは別に関係ない。影響を受けて、行動しているという部分が大事になってくる。

ここで考えたいのが、その役割の違いを比べて、別の役柄を演じてみたかった、つまり、他人の成功を羨んで、嫉妬し、蹴落とすようなことは必要なのかどうかということだ。

言い換えるなら、「隣の芝生は青く見える」という言葉にあるような、他者との比較をする必要はあるのだろうか。ということだ。

もちろん、比べたくなる衝動があるのはわかる。はるか昔から、人間は序列をつけ、他人と優劣を競い、比べてきた。今でもそう。とはいえ、そんな行動に意味はあるのだろうか?

さて、「ユニバース」と捉えた見えない何か。人が影響を受ける大きなもの。そして、人は何らかの役を演じるのだというシェイクスピア的な価値観。

これらから考えることは、つまるところ、何らかの影響を受けたのならば、その役割を、その役を引き受けて、好き勝手、自由に演じていれば良いのではないだろうか。ということだ。もちろん、人間としての善さ、哲学的に善いとされる人間的性質、道徳心や倫理観は大切である。現代の法体系の範囲内ということも当然守るべきところだが、役を演じるに当たっては、自由で良いのではないだろうか?と。

昨今では、この法体系が、人から自由を奪う形で使用されているようなところがある。禁煙ブーム然り。その他諸々あるだろう。まぁ、縛るなら、権力者の好き勝手な振る舞いくらいにしてもらって、庶民には自由を与えてもらいたいところだ。

考えていることというのは、役を好き勝手に演じていればいい。という部分で、ここには他者との比較をする余地が無いように思われる。別に誰かと比べる必要もなく、冷静に考えて、誰かと比べて良い演技ができたと比べたところで、それは主観的な判断で、誰かから見られたときに、良い演技だったかどうかは分からない。結局受け手がどう解釈し、どんな判断を下すのか。それは他者に委ねられているので、主観的な判断が及ばない部分である。と考えるなら、自由に演じた方がストレスがない。

そんな自由な振る舞いに魅力を感じる人だっているだろうし、微妙と捉えられるなら、その人の感性に合わなかっただけのことなのだろう。感性が合わなかったことを、直接野次のようにぶつけるようなことは、倫理的、あるいは道徳的にどうかと思うし、まぁ、それが成り立っているのがSNSだから…と感じるけれど、いずれにしても、批判というのは、他者の持つ常識の範囲内から外れているというだけのことなのだろう。他者の常識に自分を当てはめる必要なんて無い。

自分の意見に囚われないようにするには…

そうだ!今回は、googleのAI、bardに聞いてみよう。

賛成、反対の両面から自分の意見、考えに対して考察を深めてもらおう。

以下、bardの答え。

シェイクスピアの「人生は舞台、役を演じて去っていく」という考えは、人生には様々な役割があり、その役を演じきったら舞台から去っていくという意味であると解釈できます。

この考えに賛成する意見としては、以下のような点が挙げられます。

  • 人は、生まれてから死ぬまで、様々な役割を担いながら生きています。
  • それぞれの役割には、その役割に応じた責任や義務があります。
  • 役を演じきることで、その役割の責任や義務を果たし、社会に貢献することができる。

例えば、人は学生、社会人、親、配偶者、友人など、様々な役割を担っています。それぞれの役割には、学業や仕事、子育て、家庭生活など、その役割に応じた責任や義務があります。これらの役割を演じきることで、人は社会の一員として、その責任や義務を果たし、社会に貢献することができます。

また、この考えは、人生をより前向きに捉える助けにもなります。人生は、終わりに向かって進むものであると考えるのではなく、役を演じていくという考え方であれば、より生きがいを持って人生を送ることができるでしょう。

一方で、この考えに反対する意見としては、以下のような点が挙げられます。

  • 人は、自分の意思で人生を切り開いていくことができる。
  • 役割に縛られるのではなく、自分の可能性を追求することが大切である。

例えば、人は、自分の意思で学業や仕事を選ぶことができます。また、結婚や出産、転職など、自分の人生を大きく左右するような選択も、自分の意思で行うことができます。このように、人は、自分の意思で人生を切り開いていくことができるのです。

また、役割に縛られるのではなく、自分の可能性を追求することも大切です。人は、様々な役割を演じることができる存在です。一つの役割に縛られるのではなく、自分の可能性を追求し、様々な役割を演じていくことで、より充実した人生を送ることができるでしょう。

以上の賛成・反対の両面から考察を深めると、以下のような結論に至ります。

シェイクスピアの「人生は舞台、役を演じて去っていく」という考えは、人生をより前向きに捉える助けになる一方で、人によっては役割に縛られると感じてしまう可能性もあります。

人生をどのように生きるかは、人それぞれです。自分の意思で人生を切り開いていくのか、役割に縛られて生きていくのか、それぞれの価値観や生き方によって、答えは変わってくるでしょう。

自分の意思で、人生を切り開いていけるということに関しては、自分の意思が完全に何かからの影響を受けていないとは言い切れないのではないだろうか?

はい、その通りだと思います。自分の意思は、完全に何かからの影響を受けていないとは言い切れません。

自分の意思は、以下のような様々な要因から影響を受けています。

  • 生まれ育った環境
  • 親や周囲の人の影響
  • 教育
  • 社会や文化
  • 自分の価値観や信念
  • 自分の能力や才能
  • 偶然の出来事

例えば、生まれ育った環境が貧しかった場合、教育を受ける機会が限られ、仕事の選択肢も狭まってしまいます。また、親や周囲の人の影響で、自分の価値観や信念が形成されていきます。さらに、社会や文化の価値観も、自分の意思に影響を与えます。

このように、自分の意思は、様々な要因から影響を受けています。そのため、自分の意思で完全に自由に人生を切り開いていくということは、難しいと言えるでしょう。

しかし、自分の意思が完全に影響を受けていないとは言えても、自分の意思で人生を切り開くための努力は、必ず意味があります。

例えば、生まれ育った環境が貧しかったとしても、努力して学び、良い仕事に就くことは可能です。また、親や周囲の人の影響で、自分の価値観や信念に縛られていると感じたとしても、自分なりの価値観や信念を築き上げることは可能です。さらに、社会や文化の価値観に縛られていると感じたとしても、自分なりの生き方を見つけることは可能です。

自分の意思で人生を切り開くためには、自分の意思がどのような要因から影響を受けているのかを理解することが大切です。そして、その影響を受けながらも、自分の意思で人生を切り開くための努力を続けることが大切です。

現在の日本においては、そういった様々な影響下において、努力をしても無駄であるということを表すかのように、「親ガチャ」という言葉だったり、「〇〇ガチャ」という言葉で、ある種人生における無力感を表現しており、そのような表現があるということは、もうすでに、心理学的には、学習性無力感を少なからず患っていることが考えられるのだが、だからこそ、自由に振る舞う際に、他人との比較を止めることが大事になってくるのだと思う。SNSの影響が強い現状ではそれも難しいのだろうか?

はい、その通りだと思います。SNSの影響が強い現状では、他人との比較を止めることは難しいと言えるでしょう。

SNSでは、誰もが自分の良いところや成功をアピールすることができます。そのため、SNSを見ていると、自分は何もできていないように感じてしまうことがあります。また、SNSでは、他人の意見や批判に触れる機会も増えます。そのため、他人の意見や批判を気にして、自分を抑え込んでしまうこともあります。

このように、SNSの影響で、他人との比較をしてしまうことは、学習性無力感を助長する可能性があります。

しかし、SNSの影響を完全に避けることは難しいでしょう。そのため、SNSの影響を意識しながら、他人との比較を止めるための方法を身につけることが大切です。

以下に、他人との比較を止めるための方法をいくつかご紹介します。

  • SNSの使用を制限する

SNSの使用を制限することで、他人の良いところや成功を目にする機会を減らすことができます。

  • 自分の価値観を明確にする

自分の価値観を明確にすることで、他人の価値観や基準に惑わされにくくなります。

  • 自分の目標や目的を明確にする

自分の目標や目的を明確にすることで、他人との比較をせずに、自分のペースで努力を続けることができます。

  • 他人の成功を素直に喜ぶ

他人の成功を素直に喜ぶことで、他人の成功を自分の成功と捉えることができ、他人との比較をする必要がなくなります。

これらの方法を試しながら、自分に合った方法を見つけてみてください。

自分の価値観に落ち着くのだろう。

中野信子さんの著書『科学が突き止めた運のいい人』にもあるように、「自分の幸せのものさしを持つ」ことが大切なのであろう。

最近は、本当に孤独であるが故に、人間関係はARでありVRとかいう価値観に落ち着いているからかもしれないが、もう、どうでもいい。好き勝手に生きよう。と思い始めている。投資もできている現状は、おそらく贅沢だし、よくある人としての幸せみたいなものは、もう、多分掴めないのだろうと7〜8割方諦めてもいるので、諦めて、好きに役割を演じる。最近見た動画で、「勤めと稼ぎが今の時代は一致しているのが…」といった、現状に対する疑問が提示されていた。たしかに思う部分はあって、「勤め=稼ぎ」という考えから、「勤めと稼ぎ」を分離するという価値観への移行、すなわち、「努め」と「稼ぎ」をそれぞれ持つ。という考えができ、なおかつ、それを体現できれば良いのかもしれない。なんてことを考える。

孤独だから嫌だというわけでもないし、一人で読書、あるいは、一人でピアノを弾く。もしくは、一人でゲームをする。という時間を満喫できる性格だからこそ、より一層、自分の価値観を大切に扱っておかないといけない。

これは今年のテーマだな。自分を大切に。

AIと対話しながら、意見が凝り固まることを防ぎたいところだ。

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[2024 1/15 ~ 1/21: 怜丁日記]

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