この期間のハイライトは、
「家族を愛することが当たり前」という感覚は、
多数派のものであり、その思想の押し付けによって、
少数派が苦しめられる現実もある。
といった考えに触れ考えた「幸せ」の在り方について。
いくら家族であっても、理解できないことの1つや2つはあるし、
何なら、嫌悪感すら覚える言動だってある。
そこに「愛」はあるのだろうか。
「幸せ」や「愛」といった、一見すると美しい言葉を
噛み締め、意味をよく考えると、また違った側面が現れると思う。
教育によって「幸せ」の型を植え付けられる件
義務教育の期間や、高校、あるいは、大学まで、
教育期間は長くあるけれども、その過程において、
私達は、「幸せ」の価値観について、
一種の洗脳を受けているのではないだろうか。
今週は、ここから考え始めようと思う。
過去を振り返って見ると、私達は、大人になるまでの間に、
周りの大人たちから、「大きくなったら誰と結婚するのだろう?」とか、
「良い仕事について幸せになって欲しい」とか、「幸せに生きて欲しい」
という言葉を何度聞くだろうか。
そんな、有りもしない「幸せ」を教育させられ、
ある程度の常識として植え付けられて、最終的には、
「常識」という名の「偏見」あるいは、「思い込み」に縛られてしまう。
学校教育を振り返ると、そんな、「〇〇になったら幸せ」といった、
1つの型を提示されて生きてきたのではないだろうか。
この「幸せ」という幻想を考える前に、考えるべきことがあるはずだ。
それは、
「生きているということは、その生には、必ず終わりが訪れるということだ。」
「幸せ」を考える前に、自分自身の「終わり方」を考える事の方が、
よっぽど重要であり、「終わりがある」ということを意識するだけで、
自分の存在を大切に思えるだろうし、自分を大切に出来るなら、
自分がされて嫌なことを他者に振りかざすような真似は
しなくなるのではないだろうか。
自分もこの本は読んだ上に、改めて気付かされる部分も数多くあった。
人は、「普通に」生きているがゆえ、忘れていることがある。
それは、「幸せ」を得ようが得まいが、その人生には、
必ず終わりが訪れるということだ。
繰り返しになってしまったが、これまでに生きてきて、
自分の人生の「終わり方」を考えたことはあっただろうか。
「終活」という言葉は流行ったかも知れないが、
自分事として、受け入れることはあっただろうか。
日々の雑事を言い訳にして、考えることを先送りにしていないだろうか。
あるいは、
「終わり」が訪れるからこそ、誰かを「愛する」ということに
力を注ぐことが大切。だから、「好きな人と結婚するべき」
と考えていないだろうか。
この考え方が悪いとは言わないし、実際、「幸せ」の1つなのだろうとは思う。
ただ、「愛」=「好きな人を作る」の等式は成り立たないと思う。
「愛する」ということは、全ての生きる人に対して
「慈愛」なり「慈悲の心」を持つということであり、
「ある特定の人」だけを「特別扱いする」ことではないと思う。
この辺りは、トルストイの『人は何で生きるか』から派生した考え。
多様性を認めるべきという考えに変わっている現代
現代の社会運動の主な考え方は、全ての人が等しく平等に
認められるべき。という流れ。マジョリティでもマイノリティでも、
それは変わらないというもの。
その「多様性」という流れに乗って、「幸せ」の型も多様化しているのが
現代なのだろうと思う。昔からの、あるいは、「〇〇したら幸せ」という型
に対して、疑問を持つようになったのが現代と考えると、
「幸せ」という型が崩れ始めたと言えなくもない。
あるいは、「幸せ」の型で提示されていた「特定の型」を得るまでに
多大な労力を割かなければいけないことに気づいたため、
「幸せの特定の型」に対するデメリットを考慮していると言えなくもない。
回りくどい言い方になったが、端的に言うと、
従来の「幸せ」の型が「買えなくなった」から、
現代で「買える幸せ」に流れているのではないか。
ということ。
だからこそ、自分の推し活に「幸せ」を見出しているのだろう。
あるいは、「買える幸せ」を楽しみたいがゆえ、「時間」を重要視しているのだろう。
今の若者は「自分の時間」を大切にしている理由はそこにあると考えられる。
「幸せ」を考える前に「自分の時間」の使い方を考える
「自分の時間」には、「終わり」が訪れることは確定しているけれど、
その「終わり」が「いつなのか」ということは分からない。
だからこそ、「自分の時間」の使い方には、慎重じゃないといけない。
スティーブ・ジョブズではないけれど、「今やろうとしていることは、
本当に心からしたいことだろうか?」この問は持ち続けたい。
この世の中は、「時間」が「お金」に置き換わり、
「お金」の総量で、「幸せ」の多寡が決まるように見えるけれど、
「時間」自体は、万人にとって共通のもので、そこに差異はない。
不条理に「時間」が奪われることはあるかもしれないけれど、
おおよその場合、人の一生は、皆同じくらいの年数である。
その中で、成し遂げたことによって、「良い悪い」が決められているが、
それは、見た目がはっきりしているから。分かりやすく「良いこと」をしたなら、
価値がある人生だったと、自分を認められるから。
この世の中は、多くの物事が、「良い悪い」の二項対立に支配されているのも事実。
分かりやすく、「良いもの」に飛びついて、自分を認めたい。
そのことが現れた結果なのだろう。
世の中の多くは、そんな「二項対立」で決まるものではなく、漠然としているはず。
良い悪いは決められず、モヤモヤすることが多いから、
気晴らしをしたくなることも分かる。
正直、フィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』のセリフにあるように、
「この世は見た目がよくて馬鹿な方が幸せ」
なんていう類の考えに陥ることもあるけれど、
後先考えない人生より、自分のことをよく考えて、
自分を満たす人生を第一に考えたほうが良いとは思う。
その上で、自分を満たして、溢れた部分、余力で、
他人を満たせるなら、「善い」人生なのだろう。
自分の時間を、どう使うべきなのか。
その時間を使って、何をしたいのか。
自分だけの時間を持つなら、何をすべきか。
その時間で、自分自身を、どう満たすのか。
自分の時間は、「有限の資源」
世界は、持続可能な社会を目指しているけれど、
自分の人生においては、いつまでも「持続」するわけではない。
「有限の資源」の使い方を考えることのほうが、
「幸せ」を考えるより先にくるべき事柄のように思う。
まとめ
「将来の夢を持つことが幸せ」とか、
「家族をもつことが幸せ」とか。
浮ついた「幸せ」の型がそこら中に転がっているけれども、
まずは、「自分の時間が有限であること」に気づくべきだと思う。
「時間が有限」であることを意識すると、周りの人の「時間」も
有限であることに気づく。そうなると、他者の時間に触れるときには、
細心の注意を払うようになると思う。
自分の時間でもあり、他者の時間の一部でもある一時は、
できるだけ、有意義なものにしたいと思うことは「普通」でしょう?
多くの人間関係の問題は、この意識改革で消え去るように思える。
ちょっとだけ想像してみよう。
もし仮に、明日、目が覚めたら、自分の周りの人が半分いなくなっていたとしよう。
善い人も悪い人も、完全にランダムで、半数がいない現実に直面するとして、
明日も同じように、他者に、我儘な振る舞いが出来るだろうか。
他者を蔑ろにすることは出来るだろうか。
今までの振る舞いに対して、後悔はしないだろうか。
できることなら、人と接する時には、
文字通り、「一期一会」であることを、
念頭に置いて、生活したいものです。
いくら親しくなっていたとしても、明日、
その人がこの世からいなくなっている現実もあるかもしれないのだから。
「親しい人」がいつまで自分の側にいるかは分からない。
ずっと側にいてくれるなら、それこそ、「有り難い」
あるいは、「尊い」ものなのではないだろうか。
決して軽くはない「尊さ」がそこにあるかもしれない。
今週はこんなところ。
似たようなことを考えていたかもしれないし、
考えていなかったかもしれない。
けれど、同じことのように見えて、視点はちょっと違うかもしれないから、
考えることも悪くないのかもしれない。
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