毎日を生きていると、なんとなく心が削られたりして、気づけば欲の灯火みたいな光が一つずつ消えていくような感覚があるのだけれど、そんな中でも、一応残り続ける灯火もあって、その光に触れる度に、あぁ、自己中心的なのかもしれないなぁ。と思ったり。人間、結局、自己中心的な生き物なのだろうけれど、出来ることなら、最低限、自分の軸として折り合いをつけながら付き合っていきたいなぁ。なんて。
自分の「軸」と「自己中心的」の分水嶺とは
自分の中の結論は、「寛容さ」に尽きる。
「寛容さ」が無ければ、自分の考えを他者の考えと合わせて、別次元のものに昇華することが出来ないからだ。言い換えるなら、「アウフヘーベン」を起こせるかどうかが、自分の軸としての考えなのか、「自己中心的」なのかを分ける決定的な要素なのだと思う。
最近の例で言うと、個人的に、趣味のサークル活動に参加して思ったのだが、「趣味」の範疇だったとしても、「自己顕示欲」が過剰だったり、「このサークルに入っている人は、皆すべからく、自分の過去と同じ経験をしているのだ」などという、過剰な一般化が起こっていることに気がついた。まぁ、そんな話には適当に流す術を身につけてはいるけれど、これが結構疲れる訳で。まぁ、「みんな違ってみんな良い」っていうことにしておこう。
ただ、この「寛容さ」が欠けてしまった時に、相手の存在を自分の中から消しているかのようで、そんな「寛容さ」が無い人と関わると、結局、「あぁ、生きづらいなぁ」と思ってしまうのである。
この「アウフヘーベン」という概念は、ヘーゲルの考えなのだが、まぁ、難しい。
何より、「相手の考えはきっとこうなのだろう。自分の考えは一応、こんな形だけれど、どうすれば融合させられるだろうか?」というステップを踏まないといけないのだけれど、正解を与えられることに慣れてしまった人間は、自分の信ずる人の言うことにしか耳を傾けず、あるいは、自分が信じたもの以外を受け入れようとしないがため、「アウフヘーベン」に辿り着く前に、独りよがりな考えになってしまうようになる。それを見る度に、「もうちょっと考えてみたら?」なんて考えてしまう。
自分の軸を持つことと自己中心的の違いは、ピアノに表れる。
ツイッターのピアノ界隈のツイートが流れてきた時に、ふと、「技術的に上手くても、心に響かない演奏がある」という内容に目が止まった。その時は、あまり響かなかったのだけれども、というのも、自分は普段、クラシックを聞くなら、世界的に活躍しているようなピアニストの演奏しか聞きたくないと思っている人間なので、それ以外の演奏は、あまり興味が無いという、自己中心的な考えなのだけれど、サークルに所属してみて、色々な人の演奏を聴いてみて、実感する。
上手い人は、自分の世界観と作品の世界観を綺麗に合わせてる。そんな感じがする。
ただ、技術的に出来る人は、楽譜をなぞるだけ。というか、ありきたりな専門家の解釈を鵜呑みにして、譜面上に現れている記号を再現しようとしているというか。なんかそんな感じ。古いCDプレーヤーとか、レコードみたいな感覚がする。面白みがない。
それこそ、一年ほど前に、ピアニストの反田恭平さんの演奏を聴いた時は、大きな川がイメージ出来るほどに、壮大で、優雅で、文字通り、演奏が流れていった。そんな感覚を覚えたのだけれども…
プロとアマチュアの違いといったらそれまでなのだけれど、弾けることと、表現できることは別なんだなぁ。って。
何が言いたいのかと言うと、
弾けること=自己中心的。記号をなぞれる自分はスゴイでしょ?みたいな自己顕示欲だったり、承認欲求も含めて、自己中心的だと思ったりする。演奏を通して、表現できることは、また別。
作品そのものの持つ解釈と、自分の経験だったり体験を、アウフヘーベンさせることで、作品の違った側面を見せることが出来ること=自分の軸がある。なんだろうなぁ。っていう感じ。
「軸を持つ」ということは、実は大変で、自分の考えを失わず、相手の考えも受け入れながら、自分自身の考えをより良くさせようとする一連の行為なのではないだろうか?
軸だけだと、どこかで自己中心的に陥ってしまうし、相手に対する理解だけでも、気疲れしてしまう。どちらか片方しか無いと、バランスが崩れて、結局よろしく無い。このあたりの「中庸を取る」感覚は、いつまでたっても難しい。「中庸が大事」なんて、ソクラテスもよくニコマコス倫理学の中で言ったものだ。
とうの昔から、バランスの取れた思考が大事と語り継がれているのに、結局、それを実践することは、本当に難しいのだ。
悩むことが増えるのは、軸がぶれているからなのか?
いや、そんなことはない。
「軸がブレる」ということは、おそらく、他者の考えだったりを、自分に取り込もうとしすぎているのかもしれない。インプットの量が過剰なサインだったりするかもしれない。アウフヘーベンのためのリソースが多すぎているのかもしれない。
あるいは、「アウフヘーベン」のための新たな枠組みが見当たらなくて、疲れているのかもしれない。
確かに、日々生きていると、悩みは増えていくような感覚があるし、一向に悩みが消えることもないし、落ち込むことは増えるし、なんかやってらんないし。希望なんてものはそもそも無いし、何なら、「欲」そのものも消え失せていっているような感覚すらある。
実際、すべてを棚上げして、何も考えないようにしたほうが良いのだけれど、ふとした拍子に表れるから、本当に厄介。
そんな悩みも、きっと、「周りが見えすぎているから」なのと、「相対的に自分を評価しすぎているから」抱える問題なんじゃないかって。それこそ、SNSなんて見ていると、上位1%くらいの、本当に出来る人たちの発信が目につくわけだけれど、本当に出来る、いわゆる「天才」と呼ばれる人たちは、頑張っても「十数人〜」の単位しか無いわけで、80億人くらいのうちの、そのくらいの人数ってなったら、それは、何パーセントですか?っていうくらいにマイノリティな訳で。
その他の有象無象は、そんな世界に触れることもなく、この世から旅立っていくのだと思うと、(マルクス・アウレリウスの『自省録』でもそんなことを言っている訳で)まぁ、適当に、ポンコツな感じで、のほほんと生きているくらいが丁度いいのだろうか?なんて考えてしまうわけで。
まぁ、「考え過ぎ」なだけなのでしょうね。きっと。
どこかのタイミングで、「ちゃんと変えたい!」と思い立つときが来るのだろうけれど、そもそも、心に余力、どころか、気力がみなぎってないと、「変える」ことなんて出来ないし、その「気力」が枯渇している状態で、あれこれ手を出してみても、上手くいくことなんて、ほとんど無いだろうし。
なんとなく、心が「限界」かもなぁ。と思ったら、素直に、何もしない時間を多く持っておくことが大切なのだろうなぁ。とそう思う今日この頃でした。
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