夏は、ちょっと忙しくなる日々を送るのだけれど、そんな忙しい毎日は、正直性に合わない。3日目とか4日目くらいになると、自分自身、タイムリープしてる感覚になる。同じことを繰り返してる感じ。実際は、違う一日なのだけれど、休めてない感覚に陥る。時間の連続性を感じるというか。なんというか。「仕事」という時間の流れを断ち切れてない感覚がある。そんな忙しいなかでも、『サマータイムレンダ』を爆速で一周見終わったので、追想。
タイムリープもののアニメって、夏だなぁ。
『シュタインズゲート』・『時をかける少女』・『サマータイムレンダ』他にも異世界転生してタイムリープする作品もあるけれど、有名所のタイムリープものは、季節は決まって夏な感じがする。
自分自身、タイムリープもののアニメを多く知ってるわけではないけれど、どれも、「夏×青春」って感じがする。この感じから、「夏」という季節に抱いている幻想が垣間見える感じがして面白い。
U-NEXTで、爆速でイッキ見した「サマータイムレンダ」も夏だし、青春だし、SFだし。面白い。
特に、自分の場合、「夏」に誰かと何かをするような、いわゆる、普通の「青春」を送ってなかったから、余計にそう思うのかもしれないけれど、夏祭りに行って、誰かに告白したり、あるいは、誰か好きな人と夏祭りに行ったり、そんなひと時を過ごす時代がなかったから、余計に、こう思うのかもしれない。「夏に希望を抱いているなぁ」って。いいなぁ。美しいなぁって。
青春といえば夏。みたいな文言は、聞こえは良い感じがする。けれど、自分の人生に「青春」と呼べる時代はあったのだろうか?と思うと、全く無かったように感じる。というか、失う人生だなぁ。って感じる。
極論、生きていれば、時間を日々失うから、当然っちゃ当然なんだけれど、得る以上に失ってる感じがある。「幸せ」を得るよりも、経験した「時」が遠ざかって、日々失われている感覚。
実感することは、「こうやって、日々失って、最終的に孤独になるんだろう」ということ。よく、「得る前には、何かを失う」というけれど、本当だろうか?
実際、自分に置き換えて考えてみた時に、何か新しいものを得られるような前兆っていう感覚が全くないから、正直、信憑性は無い。失って、失い続けて、何も得られない人生もあるのではないだろうか。
夏(夏休み)に戻って、取り戻したいなぁ。
『シュタインズゲート』・『時をかける少女』・『サマータイムレンダ』他にも異世界転生してタイムリープする作品もあるけれど、有名所のタイムリープものは、季節は決まって夏な感じがする。
どの作品の主人公も、「取り戻したい何か」を、自分の中心に持っているような感じがする。
さて、自分には、取り戻したい何かはあるのだろうか?
「取り戻そう」って思うと、それは、『華麗なるギャツビー』で否定されてるから。と、真っ先に否定する性格を持ち合わせているのだけれど、果たして、もし自分がタイムリープするなら、取り戻したい何かは持ち合わせているのだろうか?
あぁ、あれだな。「誰かと話す時間。」
友達とか、それこそ、好きだった人とか。
いずれ、離れていく関係っていうことを、もっと深く考えていれば、もしかしたら、もっと話す時間を取ろうと思ったのかもしれない。
「人」自体は好きだったはずなのに、裏切られたり、傷つけられたり、自分の心にダメージを負うようなことが多かったからなのか、次第に「人」との関わりを持たなくなってきてしまったように思える。別に寂しい気持ちも無いから、そこまでのダメージは無いのかもしれないし、一人でいる時間を楽しめるタイプだったから、このあたりは自分の性格に感謝するところかもしれない。
もし、「孤独」に対して、寂しさとか辛さを感じるようなら、正直、生きていくのがもっと辛かったのかもしれない。いや、今でも、辛さを感じることはあるし、何なら、現在進行形で辛い。
そんな「辛さ」を日々、押し殺しながら、なんとか取り繕ってる。コレが何よりもストレス。
それこそ、チェンソーマンの作中でも言っているけれど、「この世はバカのほうが幸せに生きることができる世界」なんだと、本気で思ってる。ある程度、バカになったほうが楽だろうし、バカに振り切った方が、一番幸せなのだろう。
ただ、そんな、「バカ」になりきれない自分は、日々、何らかの「辛さ」をジリジリと感じて生きている。文字通り、皮膚が焼け付くような、日に焼けるような、まとわりつくような息苦しさと、徐々に焼ける皮膚を感じて、ちょっとずつ皮膚にはダメージとして熱がこもり、冷やす時間をとらないといけないような。そんな、生きづらさを感じる。
悪い側面の「夏」が日々、自分を蝕んでいく。
だからこそ、自分を含めて、後悔した人たちは良い側面の「夏」を楽しみたい!と、タイムリープを願うのか。あるいは、もっと単純に、休んでいたいだけなのか。
「夏休み」という言葉には、「何もしなくて良い」みたいなニュアンスが含まれている感じがするけれど、正直、本当に「何もしなかったら、それはそれで、つまらない。からこそ、遊ぼう!」ということが本音だろう。人は皆、きっと、遊びたいのだ。
まぁ、遊ぶにも、お金はかかるから、このあたりは、もうすでに資本主義による格差が全面に押し出された光景かもしれない。お金がある人は、「夏休み」を満喫できて、そうじゃない人は、「夏休み」どころか、「休み」すら、無い。みたいな。
もうちょっとだけ、QOLを向上させませんかね?
タイムリープして、ハッピーエンドならいいよね。
『シュタインズゲート』・『時をかける少女』・『サマータイムレンダ』他にも異世界転生してタイムリープする作品もあるけれど、有名所のタイムリープものは、季節は決まって夏な感じがする。
それに、何より、どの作品も、何度もバッドエンドを見て、タイムリープして…を繰り返して、最終的にはハッピーエンドを迎えることが出来ているから良いよね。
その「ハッピーエンド」の感覚に、心を満たされるのが、最初の一瞬。本能的に感じる部分。けれど、見終わった後に思うのは、やっぱりフィクションだし、現実はタイムリープ出来ないし、それこそ、現実世界で生きる自分は、パラレルワールドのうち、どれかを選択して、何らかのバッドエンドを受け入れないといけないんだろうなぁ。って感じる。
もちろん、タイムリープの過程の世界観だったり、何度もタイムリープを重ねて、世界線が複雑になっていく過程は面白いし、何より、見ていて飽きないのだけれど、現実には、全てが上手くいくことなんて無いよなぁ。って思う。
アニメ「サマータイムレンダ」の話のタイトルの中に、「既視感(デジャヴ)」というタイトルがあったのだけれど、正夢を見る機会が多かった自分からすると、「夢」を通して、時間軸を行ったり来たりしていたのではないかと思う。
最近では、「夢」を見る機会自体が減ってしまったので、「デジャヴ」を感じることも少なくなったのだけれど、それでも、「正夢」とかいう現象に説明はついてないから、自分の中では、「時間軸がズレて、未来に飛んだり、パラレルワールドに飛んだりしてる」なんて空想することも楽しいと思ってる。
実際のところは、おそらく、「正夢」という現象は、今現在、自分の身の回りで起きている出来事だったり環境的な要因から推察・推理・あるいは演繹し、あるいは、自分で何らかの新しい行動を起こすこと、あるいは、起こさないことを想定し、かなりの高次元で起こりうる出来事を想定し、夢として見ているのでは無いだろうかと思ったりもしている。
要は、人間の「頭脳」はスパコン並の処理ができるわけなので、「寝ている最中に演算して、演算結果を夢という現象で見せているのではないか」という。まぁ、こんな突飛なことを考えるのも好きなわけで。
フィクション的に、「時間軸の旅、パラレルワールドの追体験」と捉えても、ノンフィクション的に、「脳の演算結果としての映像体験」だったとしても、デジャヴは一瞬だし、何より、その一瞬によって、何かが変わることも無い。
「何かを変えることが出来たら良いのに」とか思うけれど、大体、行動した後の結果が「デジャヴ」だったりするから、まぁ、そういうことなのだろう。
タイムリープものの良さは、「すべてが上手くいく全能感」にあるのかもしれない。あるいは、「すべての努力が報われる感覚を味わえる所」だろうか。
いずれにしろ、そういった部分なのだろうか。「バカ」であれば、一周目に何が起ころうと、あるいは、二周目に何を変えようかとか、三周目だから、コレはヤバい…とか。そんなこと、「バカ」は覚えてないでしょ。何より、「バカ」は、三日前辺りの記憶より前のことは、高確率で記憶というものから消去されてるよね。いや、「バカ」に限らず、人類は皆過去のことを忘れながら生きているか。
いずれにしろ、その「バカ」の度合いが高ければ高いほど、嫌なことも忘れやすいだろうし、自分の都合で記憶を改ざんできる特殊能力を持ち合わせているから、結果「幸せ」なのだろう。本当に、反比例。バカのほうが幸せになれるなんて。学校教育とは真逆だよね。
「バカ」になって、ちゃんと「日本の教育」に洗脳されていくほうが「幸せ」に生きれるなんて。その「幸せ」に一瞬でも、猜疑心を持とうものなら、「幸せ」ルートから外れるなんて。ループして「幸せ」を得るためには、多分、一から積み上げないといけないよね。
まぁ、フィクションのタイムリープものは、そういったところで、最終的にすべてがうまくいく感覚が面白いってことなのだろうね。
過去を変える?今を変える?
『シュタインズゲート』・『時をかける少女』・『サマータイムレンダ』他にも異世界転生してタイムリープする作品もあるけれど、有名所のタイムリープものは、季節は決まって夏な感じがする。
そもそも、タイムリープものは、「過去を変えればすべてがうまくいく」といった発想だけれど、自分たちが生きている「今」というものは、「過去」でも「未来」でもないものである。
そんなことを言った哲学者がいたような気がする。
「今」を積み重ねることで、それが過去になるわけなのだけれど、変えるなら、「今の自分の行動しか無い」ということだろう。「変えたことの積み重ねが未来」なのでしょう?
人生における問題点は、「変え続けた事によって、それがハッピーエンドにはならない可能性がある」ということだ。
「変え続けないと良くならない」けれど、「変え続けたところで、ハッピーエンドに辿りつくわけでもないかもしれない」だからこそ、「変えることを諦め、現状維持という、ある程度の幸せ」で満足するのかもしれない。それが「幸せ」なら別に良いんじゃない?って思うけれど、今の時代、そんな「幸せ」すら得られないのが現状なのでは無いだろうか?
地球温暖化やら何やらで、日々、世界が変わっている感じもするし、「温暖化」がヤバいというなら、「夏」という季節は、「温暖化」がヤバいことを実感する唯一の季節のようにも思える。どうせ、何事もなく季節は過ぎ去るのだろうけれど、これも、あと何年繰り返すのだろう。なんなら、毎日暑い夏を、タイムリープするかのように繰り返すことで、ふと思う。あぁ、何もかも「壊れていってるなぁ」って。
自分自身の老いとともに、周りの全ても生々流転する感じ。老いては新たに生まれ。日本という国は、老いはするものの、生まれるという代謝が失われていることを考えると、国として未来は無いのかもしれない。
「日本は、資本主義を最もよく表した国だ」なんて記事タイトルを見かけたような気がする。
資本主義によって、老いと誕生の代謝が悪くなるのであるならば、資本主義はファストフードと同じような、ヤバいものという認識を改めて持たないといけない。資本主義によって、「幸せ」が、あるいは、QOLが低いと感じるならば、その社会の形は、きっとどこかが歪んでいるのだろう。
東京大学で教鞭をとる斎藤幸平さんは、このあたりをマルクスの「資本論」を再解釈することで見つめ直そうとしている。
マルクスの書物にタイムリープすることで、何かヒントは無いだろうか。と。
過去の書物を読むことは、過去にタイムリープすることと、ほぼ同義だろう。自分自身の自我は、現実世界にとどまるけれど、意識を過去の作者に憑依させるならば、「過去」に、あるいは、作者が見た世界にタイムリープすることも可能だろう。
そんなこんなで、AI時代とは言いつつ、教養が大事な理由はここにありそうな感じがする。
言葉の持つ意味を正しく解釈するには、言語能力が必須である。言語能力を鍛えるためには、様々な教養について理解しながら、世界を様々な側面で観測するだけの「眼」を持つ必要がある。
AIがすべてを教えてくれる。きっとそうなる時代はくるだろう。果たして、その時、人間には世界を多面的に捉えることができるだけの「眼」は持ち合わせているのだろうか。「教養」という世界を見るためのツールを身につけることを諦めた瞬間、正しく世界を観測することはできなくなりそうだ。
ということで、自分自身の今年の夏のテーマは、読書をして「教養」を高める。コレに尽きる。本も買ったからね。
ブックオフで色々なものを手放してはいるけれど、同時に、ほしいとおもう「教養」を得たいとも思っている。このあたりは贅沢なのだろうね。きっと。
暑い日に外には出たくないから、「読書」を楽しむのもまた一興だろう。
[2023 7/24 ~ 7/30:伶丁日記]
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