AIをサブスク化したらベーシック・インカムくらいできるんじゃないかって思うんだ。

日記

イメージは、アニメ『PSYCHO-PASS』の世界観。ちょっとだけ中央集権的だけれど、上手いこと活用したら、より、フラットで生きやすい世界になるんじゃないかっていう妄想を繰り広げてみる。

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AIの使い方に対する規制が出来つつある昨今。

そもそも、「規制すべき」という風潮が広がった背景には、テクノロジーとして、人間を遥かに凌駕していて、悪用された場合、かなりカオスな状況になる。ということなのだろう。

とはいえ、それを除いたとしても、AIを上手に活用できた場合、多くの人間の雇用を奪うという声もあるから、それも含めて規制すべきという。要は、みんな資本主義という枠の中で、「おままごと」を続けたいわけね。

確かに、AIの、テクノロジーとしてのレベルは高くて、人の能力を超えそうな勢いではあるし、生成AI系のレベルは、日々進化していることを実感する。

自分は、絵が書けないのだけれど、生成AIを活用したら、絵を作ることができるし、文章を考えることが「面倒だなぁ」と思ったときには、AIに頼ることで、自分自身は楽ができる訳で。そんなふうに、人の能力を拡張してくれる機能としてのAIの凄みを感じていると、普段の生活において、「創作する」ことにAIを活用して、ストレスフリーな生活を送ることが出来てしまって、日々の生活におけるストレスは、人間関係に落ち着くという。

人間関係のストレスが過剰になりつつある最近は、環境そのものを変えたほうがいいのだろうか?なんて思う始末。

兎にも角にも、AIを規制すべきという風潮=今までの人類の営みを根本から覆すだけの潜在能力があるということの裏返しなのだと思っている。

AIツールをパッケージ化してサブスクにする現状を…

実際、画像生成だったり、動画生成、ボイスチェンジャーのAIに関しては、すでにパッケージ化されているし、更には、サブスク化して利用料を個人から取っている訳で。

今は、AIが商品化されたら、売る相手は個人になっていて、最新テクノロジーを使って遊びたいギーク達の、優雅なおもちゃみたいな感じになってしまっているかもしれない。

とはいえ、Windowsが初めて売られたときも、そんな感じだったけれども、パソコンはそこから現代におけるインフラになってしまった。今となっては、プログラミングを学ぶ必要もあるんじゃないか?と言われる始末。AIも似たような雰囲気があって、今はまだ、AIを先取りして遊びたい人達だけのコンテンツだけれど、そのうちインフラに、あるいは、AIが隣にいることが当たり前の世の中になるのかもしれない。なんてことを、落合陽一さんは、述べていたような…

とりあえず、AIが台頭することによって、個人に対して商品化されたAIを売る企業は乱立する、している現在。もうちょっと、枠を広げて考えてみたときに、AIを規制しようとしているならば、同時に、AIの活用方法のモデルを中央がパッケージ化して、商品化して、サブスクとして売ってしまえばいいのではないだろうか?なんて思う。中央が、あるいは、国が、もしくは、国営企業的なところが率先して、AIの活用モデルをパッケージ化するならば、規制を守った上で、AIを活用できて、作業効率を向上させることが可能なのではないだろうか?その先に待っているのは、労働時間の短縮であり、ひいては、ベーシック・インカムの導入の先駆けにもなるのではないだろうかと思う。

ここらへんは、『人新世の資本論』からのアイデアも含まれているのだけれど、AIを売った国営企業的な組織は、サブスクの利用料の一部を人件費として賄ったとしても、それ以外を、ベーシック・インカムの財源にしてしまえば、増税をする必要もなくなる可能性があると思う。

実際に試算していないから、(あと、計算と情報収集が面倒だから)どれだけの額を賄う必要があるかどうかは、分からないけれど、国営企業的な組織が、AIの活用モデルを、あらゆる企業に売ることが出来た場合、買った企業側は、AIのサブスク費以上の人件費を削減できるかもしれないし、そのサブスクとしての利益を独占しなければ、ベーシック・インカムの財源としては、十分お釣りが来る可能性すらあるのではないだろうか。

新しい資本主義といいつつ、何も変わっていない現状を考えると、このくらいの変化があってもいいように思える。人が幸せに暮らすというハードルは、上手に資本の再分配ができれば、かなり低くなるはずなのに、格差が広がる一方で、何より、日本に生きている場合、実質賃金が下がる一方で、生活の暮らしぶりは、一向に良くならない。

日本国憲法は、1946年に公布・施行されたわけだけれど、よくよく考えると、そこから約80年が経とうとしている。80年も経つのに、人の考えがアップデートされない訳ないし、暮らしぶり自体は、良くなってもいいはずなのに、幸せを感じられない現代人の多いことこの上ない。(かくいう自分も、もう、今生を諦めかけている訳で…)何が言いたいかというと、国民を縛り付けるルールとして、「納税の義務」は、AIを活用したら、負担を軽減できるんじゃないか?って話。わざわざ、上級国民のために納税しているわけじゃないって話。

そう考えると、人は、「天気の奴隷」だった頃が、一番幸せだったんじゃないかって思う。つまり、農作業をして、生きるために作り、生きるために働く時代が幸せだったんじゃないだろうか?って。

いつしか、貴族階級なんてものが出来てしまったが故、農民の地位が低いものとして見られてしまったけれど、冷静に考えれば、農民がストライキ起こしたら、人類は飢餓で大変なことになってしまうことを考えると、地位が高いのは貴族ではなく農民で、なにより、農業に関する、あるいは、作物を作るための知識を持っている人の方が、貴族の振る舞いよりも尊ぶべきものなのだろうと思う。いつからか、ヒエラルキーは、貴族が上で、農民が下。みたくなっているけれど、実際問題、「生きる」ということを考えると、そのヒエラルキーは逆転するはずだ。

話は逸れたが、AIをサブスク化することで、人は雇用を失うが、「AIの奴隷」になることで、きっと、見つめ直すはずだ。「生きるとは、なんだろうか」と。

「AIの奴隷」という世界線は、人によっては受け入れ難いものかもしれないが、再分配を適切に行うことができるならば、ある種のユートピアが待っているかもしれない。

AIを活用したユートピアの妄想は止まらない。

AIを上手に活用することができるのならば、あるいは、AIと新たなコミュニズム的な思考を取り入れるならば、資本を再分配することが可能になるのだろうか?また、そのような世界線で、人は幸せに、楽しく生きることができるのだろうか?

そんなユートピアに変わっていくのならば、まだ、少しの希望は残っているように思える。

人に希望を持ったり、無条件で信じられるような世の中は美しいのかもしれない。ただ、現代は、そんなこと無くて、人を、あるいは、他人を信用すると返り討ちに遭うような世の中で、そんなことを思うと、人と関わり合うことは、ただの偶然でしかなくて、やっぱり、「人生ガチャ」という言葉に落ち着くのだろう。

人生、色々なガチャに出会うだろうけれど、「人生ガチャ」を引き続けて、当たりが来ない。なんていう理不尽を感じる人が、その時その時に、報道されるだけの大きな事件を起こしたりする。

そもそも、「人生ガチャ」を考えてしまったら、「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とは何か?になる。最低限度の生活において、ある種の理不尽を感じる生活は、文化的か否か。

「文化的」ね。文化の最小単位は家族である。ということを言い出したらきりがない。

まぁ、普通という定規を持ってくる時点で、きっと、間違ってるのかもしれない。他社比較するくらいなら、まずは、本当の意味合いで、「孤独」になって、その上で、どんな人間関係を欲するかを考えたほうがいいのだろう。

現実の色が、酷く荒んで見えてしまう最近では、過去を振り返ってみても、真っ白で空虚で、失われたようなセピア色しか見えなくて、現実が荒んで見えてしまう、この目を通して見る未来は、同様に、酷く暗い色をしているような感じがして。

身動きが取れない現状に、ただ流されるだけのような現状を、打破するためのきっかけがあればいいなぁと思いながらも、また、同じような日々を送る始末。

世界がぶち壊れてしまえばいいのにと、何度思ったことか。

そんな妄想を、AIが肩代わりしてくれるんじゃないかって、儚い妄想を繰り広げるのだけれど、やっぱり、最初の言葉を思い出す。

結局人は、今までと同じ、馬鹿げた資本主義のおままごとを繰り返すのだろう。

「馬鹿げた資本主義のおままごとを繰り返すのだろう」とか言う、酷い文言が裏切られればいいのだけれど、果たして、どうなることか。

兎にも角にも、全ては、人間関係に収束するような人生の満足度。自分自身が満足できる人間関係とは、どのようなものなのだろうか?

AIが台頭してきても、この、「人間関係」という部分だけは、変わらないのかもしれない。

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[怜丁日記:2023 9/4 ~ 9/10]

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