格差の権化。終身雇用かつ安定志向という同調圧力のディストピアでは?(最近は変わってきているけど)。という妄想を広げてみる。
仕事を大きな枠組みで捉えると、どんな職種においても、「働くということ」は、「仕事をする」ということで、業務内容や専門性は違えど、結局同じ仕事だよね。という話。
エッセンシャルワーカーが注目されてから、かなりの年月が経ったからか、社会のため、人のためにする仕事が軽視されていたので、改めて感謝しましょうという風潮も、「コロナはほぼ風邪と同じじゃない?」という曖昧な憶測で語られる論調と一緒に、どこか遠くの過去に押し流されたような気がしてならない。
もちろん、イノベーションやテクノロジーに関係する仕事が悪いというわけではなく、また、今の社会インフラにもなっているテクノロジーを否定するわけでもないけれど。結局、世間が注目している業種に富が集中してしまうのは仕方ないことで、それが格差を生み出す一つの要因になっていることは否定できないと思う。
経済格差は教育格差を生み、教育格差は学歴格差を生み、学歴格差は地域格差を生み、地域格差はまた、経済格差を生むという無限ループ。
「格差を是正するために、社会主義的なディストピアを目指しましょう。」なんて標語があったら、真っ先に否定したくなる気持ちもわかるけれど、最低限、「みんなに優しいシェアリングエコノミーを目指しましょう。」くらいの感覚はあってもいいような気がする。
ベーシックインカムが優しい社会の第一歩にならないものか。
こうやって、社会や政府に期待を寄せると同時に思うことは、真面目に生きている人が社会から報われないような社会には希望を見いだせないということ。
きっとこれは、社会から、もしくは、世間から報われたいと思う心があるからなのか。どんな環境や時代でも、こういった思いを押し殺して人のために働くエッセンシャルワーカーが尊敬に値するのは当然なのに、とても有難いことが普通になって、敬意が薄れてしまうのが、最終的に良い結果を生まないのは、家庭というミクロの社会でもわかりきっているはずなのに、それがマクロに移らない。ミクロの感覚をマクロにアップデートできればいいのに。
結局の所、社会に希望を見いだせないなら、自分自身の行動で自分自身が報われるような努力を心掛けるしかないのかもしれない。だからこそ、嫌なことでも少しずつ努力を積み重ねる大切さは心に留めておきたい。
ここで、タイトルを見て思い出す。そう、仕事の話。
同一労働同一賃金という幻想を掲げて、好感度がよくなりそうな気持ちもわかるけど、結局そんなこと目指してないよね。この社会。と思う。
幻想は幻想なので、現実を見ると、労働内容が似通っているのに賃金格差があるならば、雇用の肩書上偉いと思われている人は、せめて、ミスなく職場の環境を良くするために働けないものか。どうでもいい肩書だけ偉くなって、能力がついてきていない人を見ると、心の底から嫌悪感が湧き出てくる感覚がある。
そういう人は、その場の対応だけが上手になって、そのしわ寄せを部下や周りの人に押し付ける。それでいて、自分を改善しようと していないように見えるから、また腹立たしい。
まぁ、マネジメントが難しいこともわかるけれど、仕事として、最低限必要な管理。というものはあるはずだと、そう思いたい。
かなりきつい物言いになってしまったけど、結局の所、その場の対応だけ人当たりが良い人は信用できないんだなぁ。と改めて思う。そういう人に限って仕事をこなすだけで、より良いクオリティを求めないし。働きアリの法則は、こんな観点をわかりやすくしたものだなぁと関心してみる。
ここまで色々書いたけど、今の自分に足りていないと思う知識を書いているだろう本が二冊ほどある。
『新人生の「資本論」』
『ブルシットジョブークソどうでもいい仕事の理論』
の二冊。自分がまだ買えてない本。忘れないように書いておく。これらの本を読んで少しでも思考の幅が広がるだろうか。
なんとなく、社会主義寄りになりそうで…でも、思考の幅として知識を持つことは大切だと思うし、知識を得ることと、行動することは別物。知識を得たうえで、思慮分別のある行動をすることが大切。そう思う。
とりあえず、上記二冊は、いつ読めるのだろうか。
自分の思考がグルっと回って落ち着いたので、自分の目の前のタスクに集中するとしますか。
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